考えれば、元気になって来る。
“古都保存法”というものを、知っていますか?
実は十五、六年程前から、ぼくはこの“物語”を映画にしようと考え始め、今は益益熱くなって来ている。
発端は『いざ鎌倉』という書物です。ぼくはこの本により、この“法”の成り立ちを知った。血湧き肉躍る、これぞ“日本の”、“日本人の物語”であります。
では、映画のように語ってみましょうか。
時は1960年代。日本の高度経済成長からバブルに至る、文明化経済成長社会化の激動の時代が、いよいよこれから始まろうという、まことに未来の空が明かるかった頃。青く美しい海を見渡す鎌倉の山の上に、最先端の文明装置を施した便利快適にして効率化の限りを尽す住宅街を造ろうと夢見た御仁が御座ったそうな。つまりは、時代の願いを一身に纏ったヒーローであった訳ですね。
そこに“悪役”が登場! 「勿体無や。鎌倉のお山の上に人が住まうとは何事ぞ」、と反対の烽火をあげる。その人物はこの土地の持主にして、明治生れの頑迷な御老人。
ヒーローの会社のこれまた熱血漢の老職人などは、「私を頸にして下さい。彼奴と刺し違えて、あっしが必ず道を通します」、などと申し出たりもするのだが、事はご想像通り、なかなかうまくは運ばない。
そのうち、周囲の住民や鎌倉の地に住まう文士たちが、こぞって反対派に回って了う。
折りしも「文明化、生活の利便化は良い事だ」、と行政の長である神奈川県知事が調停に乗り出す。つまりは頑迷なる時代遅れの御老人を説得しようという訳ですね。
所が、事件が起きた。鎌倉のお山を望む件の場所に車が到着し、車を降りてお山を見上げた瞬間、
──この山に手を触れてはならぬ!
その叫びが、知事さんの口から発せられるのである。
知事さん御自身、ここへ来て、この山を見るまでは、そんな事など微塵もお考えになっていなかったというのにね。
それからが更に凄いんだなあ。
この知事さん、行政の長としては時代の要請を受けて住宅街造成計画に賛成。けれども一個人としては反対派市民運動の署名表第一号となられる。矛盾といえば矛盾だが、この世の事は矛盾に充ちているもの。それを一身に受けて示してみせたのは、「この大切な事を皆で考えてみよう」、という提案、優れたバランス感覚であった、とぼくは思いますね。
そして開発は進めるものの、開発をすればするほど業者が損をする、という風な仕組みが作られたんだそうな! ははあ、そんな事が出来るんですかねえ、とぼくなどはもう感服して了う。
ドラマのお終いは、開発に失敗した我らがヒーローが、件の頑迷老人に会いに行く。
──あなたの御蔭で、私は夢も財産もみんな失いました。しかし私は、あなたから何か大切なものを教わったような気がする。その事をこれからの私の人生の中で、ゆっくり考えてみようと思います。
この静かに一禮するヒーローの姿は美しい、そして揺るぎなく迎えて座す御老人の毅然とした姿もまた美しい。
これがぼくが作りたいと願っている映画のラストシーンである。
この一文は天野久彌さん著『いざ鎌倉 御谷騒動回想記』なる書物から草を得て、ぼくが映画風に潤色させて頂いたもので、事実通りではない。みなさんには是非この優れて心温まる原著に目を通して頂きたいのだが、この市民運動は“古都保存法”という法に制定され、思いがけない事にこの法所緑の“古都保存財団”などが、この度“美しい日本の歴史的風土100選”を定め、その中に、ぼくの古里・尾道と、隣の港の鞆の海とが選ばれた。
さあ、嬉しい事ではあるが、この選定は、この海を観光産業に役立て、町興しの資源にしなさい、という従来の“高度経済成長期”や“バブル期”のそれとは一線を画するものであるだろう。
即ち、
──この海に手を触れてはならぬ、(実際には「之は壊してはならぬ」である。)の思想によるものであると考えなければ……。
鞆の港は今、港の海を埋めて架橋しようという行政措置が進められている。勿論それはその地域で暮らす市民の方方の願いでもあり、百年前からの港を成す装置が現存されている古い町だから、道幅は当然狭く、車が走行するには時間も掛り、ひどく難儀な事態である。現代にそぐう生活や、未来に向かうこの町の発展には、架橋を施し、リゾートホテルを造り、橋からの眺望を売り物にすれば、新しい観光施設も開始出来、町は大いに発展するだろうという考え方があるのも、頷けはする。
けれども同時に、この町に暮らすある御婦人などは、「わたしたち、昔はこの海に続く雁木を下って海に入ると、魚が体に纏わりついて来て、それは楽しく遊べたもの。あの想い出は、わたしの生涯の宝物です。だからわたしの子供や孫たちにも、同じ幸福をきちんと残してやりたいんです」。
今はゲーム機が豊富にあるから、子供はそれで遊べばいい、と言うのは、高度経済成長期に、日本の子供たちをも顧客にしていったぼくら大人の罪の上塗りである。「海も残し、ゲーム機もあるよ」、というのが文明社会の良き発達の姿であり、ゲーム機があるから海は要らないと言うのは、大人社会の身勝手であるだろう。
その鞆のお母さんたちが、今度、古里の海や港の暮しを残し、守り、未来に伝えるために運動を起され、ぼくもその“支援会”の呼び掛け人の一人として参加させて頂いた。
九州大分から帰った翌日が、東京での発足記者発表。「これは決して、“反対運動”ではなく、“大切な事を皆で考えよう”」、がぼくらの立場。鞆の海や港の暮しは、未来の子供たちに、現代の大人としてのぼくらが守り、残さねばならぬ、重要な資源であるとぼくらは信じるので。
その夜は“日本映画監督協会”の新人賞最終銓衡会議。若い作家の作品四十本を観せて貰ったが、ここには間違いなく日本の未来に向かう確たる願望が潜在していた。即ち、希望の根っ子が出来している。
翌日は、信州・長野で“生涯学習”の講演。「人は生涯を通じて、“?”を大きく育てることが大事。結論を直ぐには出さず、考え続ける事。宇宙の節理は無限にあり、人間が辿り着けるのはほんの一部。成長の先は未来の子供たちに委ねつつ、ぼくらは考え続け、疑問を持ち続ける事で、人間の成長の過程を豊かにしよう。ぼくら大人の“続き”を子供らは生きて行くのだから、つまらぬ結果より、楽しい過程を学び育てよう」、と語らせて貰った。
その翌日は、信州・上田。『さくら国際高等学校』、という現代社会の制度や学校教育の現場からはみ出した、優れた“個性”を持つ子供たちと、近隣の里の大人たちが共に作り出した学びの舎で話す。「宇宙からの旅人が地球を訪れる時、最初に訪ねて来たい里」とも思われる、美しい賢人の里である。独鈷山という山裾の、古い木造校舎で、日本の明日の希望を一心に手繰り寄せようと、愉しく暮らしてらっしゃる荒井裕司校長先生に、上田の探訪でお馴染みの母袋創一市長、東京から駆け付けて来てくれた友人で脚本家の石森史郎さんらと、愉しく語らう。
翌日は東京の事務所で、九州・大分でのCMの編集。良い笑顔が小さなフィルムの中で笑っている。後藤國利市長のにんじんが届いて、皆で戴いた。土と草で育った臼杵のにんじんは、まことにうまかった。
そして翌日は、今度は名古屋からやはり信州の飯田市へ。偶然長野県が続くのだが、その事と長野で≪転校生≫を作った事とは、どこかで“必然”として繋がっているのだろうか。講演の約束は映画製作のスケジュールとは別に、その前から進められていたのになあ、と事の成り行きと筋道に大いなる不思議を感じる。 そうしたら飯田市の牧野光朗市長さんはお会いするなり、「私、臼杵の後藤市長と親しくさせて頂いてるんです。後藤市長も、二度程、この飯田へいらっしゃいましたよ」、とはもうびっくり。勿論それでこの地に呼ばれた訳ではなく、これも全くの“偶然”の“必然”!
“裏界線”と名付けられた、いわば“裏路地”がこの町には沢山あって、それはおおよそ五十年前、この町に大火があり、その学習から待避路として夫夫の家が一メートルずつ敷地を出し合って、二メートル幅の裏路地が生れたのだという。
折角のこの空間をどう活かすかというシンポジウムと基調講演で、地元の方とも話が出来て愉しかった。露地などなくしていこうと、町にあった裏路地がどんどん失われて行った今、裏路地を残し守り活かそうという動きには大いに希望が見えてくる。
そう言えばぼくは長野の《転校生》の撮影で、裏露路ばかりキャメラを向けていたのだっけ!
今、日本は確実に変わりつつある。変わらなければならないだろう、と考え続けた一週間でありました。


コメント (1)
自分も長野に不思議な縁を感じています。突然転勤してきた長野での撮影を監督が決断し、募集が終わっていたエキストラにも偶然が重なって参加でき、流れる時間の中で無意識に為される数々の選択の歯車が1つがズレていたら、今の日々は無いと実感しています。
2007年04月07日 00:16 投稿者 : 岬めぐり