神輿の伝統を守る人々を撮る 薬師 洋行

インタビュー:2016年4月3日

薬師 洋行 Hiroyuki Yakushi

富山県出身。1969年にアルペンスキー・ワールドカップを初めて取材した後、オリンピック、世界選手権など世界トップクラスの競技会でアルペンスキーの撮影を続ける。2012年、長年にわたる功績をたたえられ、FIS(国際スキー連盟)から『FISジャーナリストアワード』が贈られた。自転車のツール・ド・フランス、全英オープンゴルフ、テニスのウィンブルドン選手権など、スキー以外の取材も多い。2007年からは、毎年祇園祭を撮影している。

山鉾が引き寄せた疫病を神輿の神様が払う

京都の夏を彩る祇園祭。1か月にわたって行われるこの祭を写真家・薬師 洋行氏が撮影するようになって今年で10年目になります。さまざまな行事の中で平安時代からの伝統を誇るのが神輿渡御(みこしとぎょ)。三若神輿会(さんわかしんよかい)は、3基ある神輿のうち中御座(なかござ)と呼ばれる神輿の運行を担っています。風情あふれる町家造りの三若神輿会会所で、薬師氏と三若神輿会の近藤浩史会長にお話を伺いました。

編集委員

薬師先生が2007年から祇園祭を撮影されていることは、前回のインタビューでもお聞きしました。ここ2、3年は、祇園祭の中でも神輿渡御に特別な思い入れを持って撮影をされているそうですが、その理由を教えてください。

薬師

祇園祭と言うと、一般的には山鉾巡行が中心のようにとらえられています。たしかに山鉾は華やかですが、長く祇園祭を撮影しているうちに神輿の行事こそが祇園祭の基本なのではないかと感じるようになりました。それで、いろいろな方の協力を得て撮り始めてみると、だんだんと神輿に引き込まれていくんですよ。それと神輿のシーンだけでなく、それを守る人たちにもっとスポットを当てたいと考えるようになったのも理由の1つです。

編集委員

近藤会長にお聞きしたいのですが、祇園祭の中で神輿渡御はどんな位置づけになるのですか。

近藤

そもそもは平安時代に京都で疫病がはやったときに、神泉苑(しんせんえん)という御苑へ矛を持っていって、疫病退散の祈願をしたのが祇園祭の始まりです。矛と言っても、「剣矛」(けんぼこ)と言って、7、8メートルの棹の先に、薄い金属製の矛を付けたもので、今の鉾とは違うものです。それが平安の中期から後期にかけて、八坂さん(八坂神社)から疫病を退治する神様に神輿に乗ってきていただくという形になりました。それから、現在の山鉾につながる山が登場しました。街中の伝染病や疫病を鉾が集めて、それを神輿に乗ってきた神様が払う、という形になっています。

編集委員

三若神輿会が神輿にかかわるようになったのはいつごろからですか。

近藤

応仁の乱後からやと思います。そのころ、このあたりは田地田畑が多かったんですが、そこの庄屋さんとか地主さんとかと村の力の強い者で、三条台若冲という組織ができました。それまで神輿は轅(ながえ)町が中心になってやっておられましたが、そこらは商店でしたのでそれだけの人が集まらないということで、三条台若中に輿丁(よちょう)を出してくれと。輿丁とは神輿の舁き手(かきて)、つまり神輿を担ぐ人のことです。それが江戸の初めくらいからは三条台若中が中心となって、中御座、東御座、西御座の3基の神輿を動かすようになりました。その後、この辺も宅地化が進み神輿にかかわれる人が減ってきて、今は中御座だけをやっています。


左写真:渡御が始まる前の三若神輿会の役員。右写真:神輿の進行は吉川幹事長の指揮の下で行われる。

編集委員

三若神輿会の役割について教えてください。

近藤

メンバーは20家族40人ほどで、八坂さんから神輿の指揮、運行を委託されています。三若神輿会の下に、10ほどのみこし会があって、全部で800人ほどの輿丁がおります。我々のところは、各みこし会にハッピを貸与します。そのハッピがなければ神輿は担げません。三若神輿会は神輿運行の全責任を負っていて、うちの幹事長等がマイクを持って指揮するという形になっています。

2トンの神輿を担ぎ通す

編集委員

7月17日の神幸祭と24日の還幸祭で神輿渡御が行われるわけですが、それぞれどんな日程になりますか。

近藤

17日は夕方4時ごろに(八坂神社の)舞殿から神輿を出しまして、5時半ごろ八坂さんを出ます。そして、縄手から二条通まで上がって、河原町を通って9時半ごろに四条の御旅所(おたびしょ)に入ります。御旅所というのは、神輿に乗った神様に来ていただくために作られたところで、今はビルに囲まれた社(やしろ)になっております。24日はちょっとしんどくて、4時過ぎに御旅所を出て、八坂さんに帰ってくるのがもう9時半ぐらいです。それで、八坂さんの中で30分ほど担ぎ回って終わりになります。

編集委員

大変な長丁場ですね。

近藤

うちの神輿はトラックで運んだりしないし、17日は台車一切入れないで、全部人の肩で担ぐんですわ。一度にだいたい60人から70人で担ぐのですが、神輿が2トンはありますから、一人ひとりはよう歩けて50歩から100歩ですね。それで、動きながら、どんどん人が入れ替わります。入り方が下手で躊躇したり、タイミングが悪くて詰まってこけたりすると、踏まれたりする可能性があるんで危ないんです。

編集委員

神輿が通るには、狭いところもあるのではないですか。

薬師

見ていると、三条通なんかは柱があって危ないから、ぶつからないように前にいる人がコントロールしながらうまくやっていますね。

近藤

神輿の動かし方1つにしても、行けるところは行かして危ないところはゆっくり進まして、という強弱を付ける。輿丁の人たちが勢いで行きそうになるところを、どなりちらしてでも止めるというようなことをやってますね。

編集委員

そういうところは撮影も難しいのではないですか。

薬師

いやあ、付いて歩くだけでも大変です。特に細いところは、写真を撮っているほうも踏まれないように気を遣いますね。僕らが転んでも、大けがになりますから。

近藤

神輿の連中は前を向いて進みますが、写真を撮ろうと思ったら、後ろ向いて歩かなならんですもんね。

薬師

そうそう。それで、1回後ろまで下がると、もう前に出れないんですよ(笑)。だから、そういうときは先回りして前に出たり、上から撮れるポイントに移動したり、その辺は経験を踏まえていろいろ考えていますね。ところで、神輿には鳴鐶(なりかん)を付けてますね。あれはやはり大切なものなのですか。

編集委員

鳴鐶というのは?

薬師

(写真を見ながら)これを鳴鐶と言うのですが、当日神輿の轅、つまり担ぎ棒の先に付けるんです。ここにちょっとしたすき間があるじゃないですか。そこをこの金属の板のようなものが上がったり下がったりして、かっしゃん、かっしゃんと音がするんです。

近藤

この鳴鐶を鳴らすのは、彼ら輿丁の誇りみたいなものですね。轅の先端のところは、輿丁もステップを踏めるようにならんと、なかなか担がしてもらわれへんわけですよ。「お前、まだ早い」とか言われて。彼らはこの鳴鐶を非常に大事にしてますね。

薬師

たぶん、初めて神輿を見た人は、そういうところには気付かないと思うんですが、7年も8年も見ていると、皆さんがこれを大事にしているのが見えてくるんですね。だけど、神輿を上下させて鳴らすんだから、相当な力がないと駄目だし、タイミングがうまく合わないとなかなか鳴らないですよね。

近藤

鳴らないです。片方だけ鳴ってもあんまり聞こえないし、前2枚がそろってかっしゃん、かっしゃん言い出したら、きれいに鳴りますね。逆に言うと、そういう音を頼りに、神輿を舁いでいる真ん中の者とか後ろの者は神輿を上げ下げしていますんでね。

弁当作りにも表れる神輿の伝統

編集委員

毎年、撮影を始めるに当たっては、どんなことを意識して臨まれるのですか。

薬師

1つは伝統。その伝統をどういう形で表現すればいいのかを考えるのですが、なかなか難しいですね。神輿を担いでいるところだけではなくて、ほかの面も出していったほうがいろんなものが見えてくるのかなと。そうすると、やっぱり詰まるところ、人へ行くんですよね。例えばこういう弁当の写真。去年、初めて実際に弁当作りを見せてもらったんですが、もうすごいんですよ。


早朝から会所で作られるお弁当はタケノコの皮で包まれたシンプルなもの。

近藤

そんな手の込んだお弁当じゃないんですけど、朝5時ごろから神輿の舁き手の男衆が70人くらい来て、お弁当を作るわけです。こういう型にご飯を入れて、竹の皮にパッコンと置いて、そこにお漬け物と梅干しとごま塩のせて、竹の皮でくくって出来上がりです。輿丁の分だけやったら1600ですけど、「ちょっとちょうだい」「ちょっとちょうだい」というのがありますんで、3000くらい作っています(笑)。うちの輿丁には、「これがあるから来るんや」という連中もいますからね。

薬師

(昨年の写真を見ながら)このときは台風が大阪あたりを通ったときで、大変でしたね。会長はすごいなあと思ったのは、雨具もなしで素のままでしたから。やはり伝統を守るには、そういう心意気がなきゃ駄目でしょうね。

近藤

去年は大変でしたね。僕は16日の夕方からずっと八坂さんにいましてね。「やる」「やらん」という話から始まったんですが、だれもはっきり言わへんし。神輿はやるとなったら、3基で2000人集めなならんし、えらい大騒ぎでした。でも、写真の撮影も大変でしょう。カメラは大丈夫だったんですか。

薬師

あの日は、朝から山鉾に付いて撮影して、夕方からは神輿でしたから大変でしたね。カメラのほうは防塵防滴なのでそこは心配なかったんですが。

編集委員

近藤会長は、神輿渡御が継続的に撮影され、作品として残されることについて、どのようにとらえていらっしゃいますか。

近藤

先生のお写真は、やっぱり見ておられる視点がほかの方とはちょっと違うなと。例えば、この写真、輿丁の肩にできたコブを写しておられますが、ああいうコブができるまでやらんと神輿は成りたたへんのやなということが伝わってくると思うんでね。我々は神輿を動かすので精一杯というところもありますけれど、そういう視点で撮っていただけることで、我々も分からない、神輿の新しい魅力が出てくると思うので、ありがたいですね。

守っていかねばならないという使命感

編集委員

神輿の運営ではどんなことに一番気を配っていますか。

近藤

我々としては、やはりけがをされたり、いさかいがあったりしたら怖いですね。神輿は50センチほど上下します。それに合わさずに神輿が上から降りてくるときに肩をがーんと上げたら、大けがをします。ですから、「ほないっぺん担ぎましょうか」と言うて担げるもんではないんです。各みこし会は多いところで月1回くらい練習していますが、中御座のみこし会としては6月の第1週から毎週練習します。新しい人たちは毎年集めて、「お前ら言うこと聞けよぉー」とか「無理すんなよぉー」「みんなが担いで危ないときは、お前ら逃げたってかまへんねや」とか言うてますね。

編集委員

神輿の運営にかかわっていて、どんなときによろこびを感じますか。

近藤

例えば、八坂さんの下で3基の神輿をぱーっと持ち上げたときに、ちょうど夕陽が照るんですわ。それがきらきらきらきら輝いてね。みんなは白いハッピ、後ろは八坂さんの赤い門というものすごいコントラストで、自分らが見ててもきれいな神輿やなあと。そん中で、「ほいっと」「ほいっと」というリズム感で神輿が動くのを見てたら、ああやっててよかったなと思います。ご神事に対してこういう言い方をすると怒られるかもしれませんけど、神輿には精神的にも肉体的にも快楽的な楽しみがあるんですよ。しんどいことはしんどいし、痛いんですが、ある種のものすごい運動をする中で、担いでるもんもそうですけど、我々にしても一種の連帯感、特殊な気持ちを共有できるということがあるんですね。


会所の二階に掲げられている名札。威厳や誇りとともに引き継がなければならない重圧も。

編集委員

時代が変わる中でその伝統を守るのは大変なことと思います。それでも、続ける力はどこから来るのですか。

近藤

私自身が思うのは、やっぱり守っていかなければならない、という一種の使命感ですね。我々のところは、何代も何代も続けてやっておられる方ばかりです。輿丁にしても、800人いて新しい人は毎年20人くらいです。大方は20年、30年来ている。30歳くらいで来て、50歳になってもまだやっているという神輿は少ないと思いますわ。

薬師

やっぱり誇りを持っていないと、積極的にはかかわれないですよね。

近藤

三若には1つの誇りみたいなものがあります。輿丁は輿丁で、中御座を担ぐということに一種のプライドを感じてます。輿丁も若い人たちから60、70歳の人たちまで「うちの神輿だけは絶対恥ずかしない神輿にしたい」とよう言うてきますんでね。


親から子、子から孫へと、後継者を育てて行くのも大切な伝統だ。

薬師

それに必ずお孫さんも連れてきて、神輿を見せていますね。次の輿丁になるかは分からないけれど、何とか続けてほしいな、という気持ちが伝わってきますね。

文:岡野 幸治