震災5年を間近に控えて 安田 菜津紀

インタビュー:2015年10月30日

安田 菜津紀 Natsuki Yasuda

フォトジャーナリスト。東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。2012年、『HIVと共に生まれる-ウガンダのエイズ孤児たち-』で第8回名取洋之助写真賞受賞。2015年8月に実施した『第2回フォトジャーナリスト安田 菜津紀と行く東北スタディツアー』(主催:オリンパス、スタディオアフタモード)では、高校生10人を東北の被災地に招いた。2016年2月には、陸前高田で出会った漁師と孫を主人公にした写真絵本『それでも、海へ-陸前高田に生きる-』(ポプラ社)を出版予定。

海で生きる人たちの豊かな生活

2011年3月11日の東日本大震災から、まもなく5年がたとうとしています。フォトジャーナリストの安田 菜津紀さんは、震災直後から岩手県陸前高田市に入り、取材を続けてきました。ここ1、2年に撮影した写真を見せていただきながら、安田さんが東北に寄せる思いについてお話を伺いました。

編集委員

今回は陸前高田の写真をたくさん見せていただき、ありがとうございます(作品は、このホームページ下部の「PHOTO GALLERY」で公開)。海で生きる人々の姿にひきつけられました。

安田

ここは陸前高田の広田半島にある小さな町です。中心になっているのは、修生君という男の子—シュッペと呼ばれているのですが—、シュッペとそのじいちゃんです。この2人を通して、自然と人間が同じ空間を分かち合って生きるとはどういうことなのかを見つめたいと考えて通い続けています。

編集委員

いつごろから取材するようになったのですか。

安田

じいちゃんとシュッペに会ったのは、震災から1年たった2012年の3月です。地元でとても頼りにされている漁師さんがいるという話を聞いて、会いに行ったのがきっかけです。それまでは市街地を取材することが多かったのですが、震災から半年過ぎたころから、漁師さんが骨組みだけになった作業場で何か作業していたり、港に手を入れたりしている様子がかいま見えていたんですね。私は初めて陸前高田に入ったとき、さぞかし人は海を恨むであろうと思ったんです。それでもなお、この人たちが海に戻っていくのはなぜなのかと、非常にシンプルな疑問を持ちました。それでお会いしたのが、シュッペのじいちゃん、菅野 修一さんだったのです。

編集委員

菅野さんご自身も、震災の被害を受けられたのでしょうか。

安田

漁師さんたちにとって船を失うことは生活を失うことなので、何としても船は守らなければならないことになっています。それで「沖出し」という習慣があって、地震があった日は津波が町をのみ込む前に船で沖合に出ました。無線でやり取りをしていて、後ろから来た仲間たちが波にのまれていくのが分かったそうです。後ろを振り返ると、椿島という島が波にのみ込まれていました。修一さんたちが住んでいる根岬の集落には昔からの教訓が残っていて、皆さん高台に住んでいます。修一さんは、家にいれば大丈夫だからと家族に言い残して海に出たのですが、これでは波が自宅にも到達するのではないかと、ものすごい恐怖感を覚えたとおっしゃっていました。

編集委員

4年近く取材を続けてきて、どんなことを感じていらっしゃいますか。

安田

海の営みがこの町の心臓部なんだ、ということを強く感じるようになっています。この町のおすそ分けの感覚がすごいんです。例えば、イクラの時期にお家に行くと、どんぶりいっぱいのイクラが出てくるんです。イクラ丼じゃなくて、イクラだけでどんぶりがいっぱいなんです。ウニの季節になると、お皿にウニが積みあがっている。みんなで食べるのかと思ったら、「待って。それ1人ずつだから」って言われる(笑)。海のものが陸に上がり始めると、おすそ分けが町中に一気に広がっていきます。だから、海の仕事をしていない人たちも、今日はウニがあるらしいって、みんなそわそわして、いつもより早く家に帰るみたいな感じで。

仮設住宅のおばあちゃんたちにお話を聞くと、「震災前に食べ物なんてほとんど買わなかった」っておっしゃるんですね。海のものをたくさんおすそ分けしてもらって、自分たちは裏の畑でとれた白菜なんかをおすそ分けする。本当に、これこそが豊かな生活なんじゃないかという気がしますね。だから、海はあれだけ町を破壊したけれども、でも恵みを与え続けてくれるものでもある、ということをこの町の人たちは感覚として知っているんだと思います。

「梯子虎舞」と祭りの意義

編集委員

鮮やかな青空のもとで行われたお祭りの写真もとても印象的です。これはどんなお祭りですか。

安田

これは鶴樹神社のお祭りですね。4年おきに開かれるお祭りで、「梯子虎舞」(はしごとらまい)が有名です。トラの中には2人の男性が入っていて、はしごを登っていきます。はしごは20メートルくらいの高さがあります。登りきったところで、トラの頭がぶらんと垂れ下がることもあるのですが、そのとき中でははしごに足をかけて逆さにぶら下がっているんです。

そして腹筋の力で起き上がってくるんですね。練習中にまだ慣れなくて腹筋の力がうまく使えないときは起き上がれなくなることもあるそうで、恐怖だって言っていました。だから、本番でもトラ役の男性のおばあちゃんやおじいちゃんが、はしごにトラが登っていく様子をじっと見守っていたりします。

編集委員

太鼓を打つ若者の顔も晴れ晴れとしていますね。

安田

このお祭りをするに当たっては、皆さんそれぞれ思うところがあったと聞いています。生活を立て直すのに大変なのに、お祭りなんかやっている場合じゃないだろうという声も集落の中にあったそうです。だけど、こういうときだからこそ、人が集える場を絶やしてはいけないという声もあったんですね。

これは別の地域で聞いたのですが、災害が多い場所はお祭りも多いみたいです。それには魂を弔うという意味ももちろんあると思うんですけれど、それだけではなくて、お祭りがあることによって、毎年人が集まって、今だれがどういう状況なのか、だれにこういう集団を引っ張る力があるのか、そういう近況を確認しあえるというんですね。実際に震災が起こったときには、あの人にはこの役をやってもらおうとか、あそこにあの道具があったはずだから持ってきてもらおうとかいう対応がすぐにできたということでした。

未来に向かって手紙をつづるように撮る

編集委員

陸前高田を取材することになったきっかけを教えてください。

安田

個人的なことになるのですが、順を追ってお話させてください。主人の家族は盛岡の出身だったのですが、義理の父は県立病院に勤めていて、震災の5年前に陸前高田にある県立高田病院に転勤になりました。主人は私と同じ仕事をしていて、3月11日、(当時は交際中だった)主人はアフリカのザンビアに、私はフィリピンにいました。主人が先に帰国して陸前高田に入り、私はそれを追いかけるような格好で現地に入りました。厳しい状況は知っていたのですが、それでも心のどこかでうまく逃げ延びているだろうと思う気持ちもあったんですね。でも、市街地全体がごっそり流されて、どこまでも累々と続くがれきの山を初めて目の当たりにしたときは、言葉を失いました。父は県立病院の4階にいて、首まで波につかりながらも幸い助かりました。でも、母の行方がどうしてもつかめません。震災から1か月後、川の上流9キロのところで、2匹の犬の散歩ひもをぎゅっと握りしめた状態で見つかりました。手話の通訳として活動していたので、いつも地震の警戒警報が鳴ると、真っ先に耳の聞こえない人たちのところに走っていったそうです。最期までだれかのために生きた母の命がこの町にはあるような気がします。そういう家族の縁をもらって、今もここに通い続けているということですね。

編集委員

被災地の状況を伝えることはとても大切な仕事ですが、その一方で写真を撮り始めるまでにはためらいもあったのではないですか。

安田

それはごく自然な流れだったと思います。最初は何かしなくてはという焦燥感ととともに、何を発信していいのか分からないという戸惑いも大きかったのですが、何度もお邪魔するようになると、いつも顔を合わせる方、どんどん親しくなる方が増えていきました。そして、一緒に時間を過ごしていく中で、シャッターを切るのが自然になっていった部分があると思います。

仮設住宅の自治会長さんにはとてもお世話になっていて、お互いに腹を割っていろんなことをお話しします。その自治会長さんが、実は震災の直後こそ写真を残しておいてほしかった、と言われたことがあります。震災直後、消防団の男性たちは、顔見知りの御遺体を運んだりしていました。そういう状況でカメラを持って歩いている人間を見たら、下手をすると殴りかかったかもしれない。でも、今になって思うと、毎日のように風景が変わって、いったいどこまで波が来て、どこまでがれきがあって、どうやってあの状況を生き延びたのか、あれを経験した町の人たちでさえどんどん記憶があいまいになっている。

だから、次の世代が同じような災害に見舞われたときに生き抜くヒントを残すためにも、やはりあのときの写真を撮っておいてほしかった、ということを言われたんですね。フォトジャーナリストは、今起きていることを今伝えることに重きを置くべきだと私はずっと思っていたのですが、写真の役割はそれだけではない。今伝えるのではなくて、未来に手紙をつづるような役割もあるのかもしれないですね。

どうしても伝えたいことがあるから

編集委員

東日本大震災をテーマに講演をされることもあると思います。あるトークショーでスライドを見せながらお話をされている中で、お父さまが県立病院の4階で津波が迫りくる様子を撮影した3枚の写真が映し出されたときには、あまりのリアリティーに会場の空気が一変したような気がしました。

安田

父があの写真を残してくれたのは、すごく大きなことだったと思います。私自身は、後から加えてもらった家族ですし、実際に津波を見たわけでもありません。そんな自分がいったいどこまで語っていいのかという後ろめたさも常にあるんです。でも、そういう後ろめたさから逃げないということも、私が震災から学んだことの1つです。実は今年7月に、栃木の親せきのところに身を寄せていた父が急きょ亡くなりました。ずっと陸前高田に戻りたいと話していたのですが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)が激しく身体を思うように動かせなくて、近づこうとすると手が震えたり呼吸が苦しくなる、ということがありました。地元の新聞がとても好意的な記事を書いてくださって、それを見た父の患者さんから本当にたくさんの手紙をいただきました。

ものすごく信頼関係の厚い夫婦でした。18歳のときから付き合って結婚した、長い夫婦でした。淳子というのが母の名前ですが、震災直後に「淳子がいなくなったら、生きていく意味がない」と父は言いました。私はそのときに「お願いですから生きていてください。私自身は母子家庭で育ってきたので、私にとって唯一お父さんと呼べる人がせっかくできたので、どうか生きてください」と。父は「分かった。その言葉を支えにして自分は生きる」と言ってくれました。まだ全然実感がないんです。父がせっかくつないでくれたこの街との御縁なので、その縁をつないでいくことが、まだ生きている自分たちができる、せめてものことなのかなというふうに思っています。

文:岡野 幸治