どこかにある「ふるさと」を探して 清水 哲朗

インタビュー:2017年4月28日

清水 哲朗 Tetsuro Shimizu

写真家・竹内敏信事務所で3年間助手を務めた後、フリーランスとして独立。独自の視点で自然風景からスナップ、ドキュメントまで幅広く撮影する。2005年『路上少年』で第1回名取洋之助写真賞受賞。2012年、写真集『CHANGE』をモンゴルで上梓。2014年、日本写真協会賞新人賞受賞。写真集『New Type』で、2016年さがみはら写真新人奨励賞を受賞。

写真家の関心はいつか「ふるさと」に向かう

モンゴルの撮影で知られる写真家・清水 哲朗氏が、ここ数年取り組んでいるテーマがあります。それは「ふるさと探し」です。いったいそれが何を意味しているのか、なにがきっかけでその撮影を始めたのか、お話をうかがいました。

編集委員

ここ数年「ふるさと探し」をテーマに撮影をされているそうですね。「ふるさと探し」とは聞きなれない言葉ですが、どういうことなのか教えていただけますか。

清水

写真家はある一定の年齢になると、「ふるさと」をテーマに撮影することがあります。僕はずっとモンゴルを写してきましたが、年齢を重ねたときにどういうものをやっていくかはよく考えるんです。このあいだは厳冬のモンゴルで凍傷になったりもしましたし、奥地に入っていくような厳しい撮影をいつまでもやれるとは考えていません。

でも、「ふるさと」を撮ろうと思っても、僕には「ふるさと」がないんです。横浜で生まれて千葉に移り、10歳で横浜に戻ってきたのですが、どちらも「ふるさと」という感じがしません。以前に何度か横浜と千葉で撮影に挑戦してみたのですが、記憶にあった場所がなくなっていたり中途半端に変わっていたりして、「ふるさと」としての魅力がないんです。それで「ふるさと」がないなら、探してみようと考えたわけです。

編集委員

「ふるさと」を探すとは、具体的にはどういうことですか?

清水

まずやり始めたのが、家系図づくりです。家系図をたどって、自分のルーツがどのあたりにあるのかを探ろうと考えました。それで親に聞きながら家系図をつくり始めたのですが、すぐに途切れてしまいました。

次に考えたのが、身体的な特徴です。北方系、南方系という分け方がありますが、自分はどちらに属するのだろうと。すると、まぶたは一重だし、唇は薄いし、ウインクしたときに唇が動く。どう考えても、北方系なんですね。母方の祖父は宮城出身だし、きっと北のほうなのだろう。でも、それ以上はわからないですね。

それで今やっているのは、DNAに聞いてみようということ。つまり、日本各地のいろいろなところを訪ねてみて、DNAに刻まれた記憶がよみがえるのではないかということです。たとえば、海を見たときに懐かしいと感じるとか、森を見たときに胸騒ぎがするとか。

心惹きつけられるものに出合うために

編集委員

それでは、作品を拝見しながらお話を聞かせてください。

清水

ここに写っている火祭りは、⻑野県野沢温泉の道祖神祭りです。間近で火を見たときに恐怖におびえるのか、闘志が湧き起こるのか、とても興味がありました。どうせなら、できるだけ大きなものを見たいと道祖神祭りを選びました。このやぐらの上でみんな歌ったりお酒を飲んだりしているのですが、下ではやぐらを守る人と攻める人との間で激しい攻防が繰り広げられています。火の中に飛び込んでいくようなすごさですね。

これだけの火を見ると、やっぱり興奮しました。ただ、ここに自分のルーツがあるかというと、ちょっと違うかなとも思いました。朝から準備をずっと見ていたのですが、そうした光景になつかしさを覚えることはなかったです。僕は雪を見るとうれしくなるのですが、そういう感じもしなかった。僕が親しみを感じるのは、もっと北のほうの雪なんだろうという気がしました。

編集委員

こちらの写真の石はとても荘厳な感じがします。

清水

これは、大分県の国東半島の手前、安心院町にある佐田京石というストーンサークルです。いわゆるパワースポットですね。最近、石を見るとおもしろいなと思うようになってきました。「おお、いいねぇー」って触ってみたりとか。そういう年齢になってきたということかな(笑)。子どものころから化石が大好きなので、もともとの石好きかもしれないですけれど。

編集委員

こちらの鯉のぼりがはためく写真はどちらですか。

清水

これは福島ですね。鯉のぼりのわきに家紋をあしらったのぼりが立っていますけれど、こういったものにも地元感が出ていますね。その地域の人々にとっては当たり前のことかもしれないけれど、そこに育っていない僕から見ると、何か不思議なものが立っているなという感じがします。


「釣石神社」宮城県北上町

編集委員

こちらは、今にも落ちてきそうな岩が突き出した不思議なところですね。

清水

これは宮城県石巻の釣石神社ですね。昔から「落ちそうで落ちない釣石神社の釣り石」と言われているのですが、震災の津波でも大丈夫でした。震災後は特に受験生に人気みたいですよ。

東北大震災がふるさとを意識するきっかけに

編集委員

このテーマに本格的に取り組むようになったのはいつごろですか。

清水

2007年に「ひだまり」という前身になりそうな個展を開いているのですが、テーマとして本腰を入れるようになったのは、東日本大震災後です。震災があって、地元愛を再確認された方は多いですが、僕自身も震災を経て自分の中で考えがまとまった気がします。

僕にとっては北上町(宮城県石巻市)とのかかわりがとても大きいです。もう20年ほど前になるのですが、北上で町役場に勤めている人や写真クラブをやっている人たちのあいだで、東京の有名な写真家に来てもらって写真教室をやりたいという話が持ち上がりました。それで白羽の矢が立ったのが師匠の竹内敏信で、僕はアシスタントとしてかかわりました。その後、僕は師匠の下から独立したのですが、北上で知り合った方々とはずっと仲良くしていただいていました。写真教室はその後も続き、震災の数年前からは僕を含めた弟子数名も講師として呼ばれることになりました。北上は風景がすごく素敵で、食事もおいしく、人も優しくて、本当にいいところなんです。震災の3か月くらい前にも教室を開いて、みんなで「波がきれいだね」と言いながら撮影していました。そのときは、まさか津波で壊滅的な被害を受けるとは想像もしていませんでした。

震災後、ようやく現地と連絡が取れたのは1か月たってからです。電話で「何か手伝うことはないですか?必要な物資があれば届けます」と言ったのですが、「来ていただくのは嬉しいのですが、すべて流されてしまったので何もやってもらうことはないですよ。残っているのは、清水さんたちが撮ってくれた写真だけです」と言われました。そのとき胸が痛くなるような思いがしました。写真教室は毎年同じところで同じようなものを撮っていたので、正直、そんなに幅広いイメージで撮っていませんでしたから。震災前に「もっとスナップ的なものもやりましょうよ」と言って、やっと1、2回そういったものを撮影して、いよいよこれからというところでした。

写真集は未来へ語り継ぐメッセージ

編集委員

北上の作品は写真集としてまとまっていますが、出版にあたっては資金集めから写真集の構成まで中心になってかかわられてそうですね。

清水

ずっと前から地元の方が師匠に「いつか北上の写真集を作りたい」という話をしていたみたいなんです。でも、震災があってそれがかなわなくなっていました。震災から5年にあたって、やはり昔のきれいだったころの北上の風景を収めた1冊の本を作りたいという話が出てきました。それで、当時の写真教室の講師たちが一肌脱ぐことになりました。

津波で地元の方の写真はほとんど流されてしまったのですが、たまたま2階にあったから助かったというような写真があって、そういうものをベースにしました。(写真集を開きながら)たとえば、この写真は先ほどの釣石神社のお祭り。30年くらい前に撮られたものです。地元の方が階段の真ん中ぐらいのところで神輿が下りてくるのを待っていて、何気なく下を見たらみんながこんなふうに笑っていたと。それで1枚だけシャッターを切った。ここに写っている何名かは津波で流されて亡くなったそうです。

そんな話も聞いていたので、写真集の構成には時間をかけました。前半は師匠や写真教室講師、地元の方々の作品が中心で、震災の写真は地元の方の写真、後半の復興に踏み出した様子はすべて僕の写真です。震災を知らない若い人たちがこれを見て、自分たちの住む町はこんな町で、こんなことがあって、そして復興に向かっていったということを語り継いでくれたらいいなと思います。タイトルの「未来へのメッセージ」という言葉にはそういう思いが込められています。

この写真集を作るためにこの地域の文化とじっくり向き合ったことで、自分自身の「ふるさと」を追いかけたいという気持ちがより芽生えたのかもしれません。そういう意味でも、この写真集を作ったことはとても大きな経験でした。

文:岡野 幸治