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2007年03月 アーカイブ

2007年03月15日

大林 宣彦 プロフィール

テーマ: かく語りき

大林宣彦【映画作家】
1938年、広島県尾道市生まれ。
3歳のときに自宅で出合った活動写真機で、個人映画の製作を始める。
1964年頃からTVCMの制作に携わり、2,000本以上もの作品を生み出す。
1977年に公開された『HOUSE/ハウス』で劇場映画に進出。以後、『ねらわれた学園』(1981年)、『青春デンデケデケデケ』(1992年)、『理由』(2004年)をはじめとする数多くの作品をコンスタントに発表。なかでも、故郷で撮影された『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年)は“尾道三部作”と称され、多くの映画ファンたちに愛され続けている。
2007年夏には、『22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語』と『転校生 さよならあなた』の劇場公開が控えている。
第21回日本文芸大賞・特別賞を受賞した『日日世は好日』など、著書も多数発表。2004年春の紫綬褒章受章。

新しい《転校生》が完成した。

テーマ: かく撮りき

 暖冬は、普段の暮しの中では有難いものだった。「暖かいですね」、「助かりますね」。しかし今年は、有難がってばかりはいられない。「一寸、恐いですね」、「冬はやっぱり寒くなくちゃね」、と僕らの挨拶も変わってくる。人間は、言葉で考え、言葉で語る。暮しの中の言葉の変化を観察していると、時代の動きがよく判る。

試写会場の様子

 ──五十年後の長野の子供たちに見せたい、伝えたい映画を、と信州・長野の人から依頼を受けた。映画は大きなビジネスでもあるから、普段は「今日、儲かる映画を」、である。それが「五十年後」とは、純粋に文化・芸術としての依頼である。これは嬉しかった。誇らしかった。
 偶然のように、同じ長野の講演先で、四十代の男性から、「昔、十代の頃《転校生》という映画を見た幸福が忘れられません。今わたしの息子が十代ですが、見せたい映画が有りません。どうかもう一度《転校生》のような映画を」、と懇願された。

 時代が求め、願うものが、明らかに変化している。僕は映画作家であり、文化・芸術の徒であるのだが、それは「劇映画」をペンやカメラ代わりにして、娯楽で物を語るジャーナリストである、と自覚している。僕らが日常生活の中で嫌な事、辛い事、忘れていた方が楽な事、けれどもやっぱり考え続けなければならない大切な事に対して、笑ったり泣いたりしながら愉しく向き合い、考え易く、語り合い易くしてくれるものが、映画である、とは大先輩の黒澤明監督も仰っていた。だから黒澤映画が描いて来た物語は、新聞で言うなら第一面か社会面のトップ記事のような事象ばかりだ。例えば《天国と地獄》のような貧富の差が生み出す幼児誘拐事件。政財界の腐敗と汚職に目を向けた《悪い奴ほどよく眠る》。マスコミの暴力を扱った《醜聞(スキャンダル)》。原水爆の恐怖からノイローゼとなり、家族もろともブラジルに移住しようとする父親と一家の確執を軸にした《生きものの記憶》。癌で死にゆく一庶民の生きがいを称えた《生きる》。貧しい恋人二人の細やかな幸福を願う《素晴らしき日曜日》。更には、武士の美学と農民の生きる智慧を対比した《七人の侍》。娯楽時代劇の一篇《椿三十郎》にだって、滅法強い正義の剣豪三船三十郎をお城の奥方がゆったり諭して語る「あなたはまるで抜身の刀です。本当に良い刀とは、きちんと鞘に納まっているものですよ」の一言は、現代の抜身の刀の如き文明、経済の使い方に対して、美しく賢い人間のありようを諭されているようだ。そして黒澤映画は、どんなに醜い悲しい事象を描き、告発していても、結末では人間の勇気と希望を手繰り寄せようと努力する。決して絶望のままでは終わらない。黒澤明は、人間を信じ、信じようとしている。それが世界の人の心を動かし、優れた娯楽にも芸術にもジャーナリズムにもなり得た。そしてそれこそが、文化・芸術の役割であったのだ。

左から厚木拓郎さん、宍戸錠さん、蓮佛美沙子さん、森田直幸さん

 その上で、僕は「五十年後」を考えてみよう。それはまことに恐ろしい。果して五十年後のこの日本に、世界に、地球上に、人間は無事生きて暮らしているのだろうか? そして、子供たちは? 現在は五十年後の平穏が、俄には信じ難い時代である。五十年後の子供たちにこの映画を伝えるには、五十年後の地球上に彼らを無事存在させてやる努力から、僕らは始めなければならない。五十年後に子供たちが生き続けている条件は、只一つ。世界から戦争を無くし、そこに平和が創造されている事。その為に、僕らは今何をすべきなのか?
 二十世紀は、戦争の世紀でありました。科学文明の殆どは、実は「兵器」として発展して来たのです。恐ろしい事に、経済もまた。映画の機器も兵器という目的があって開発され続けて来た。二十世紀は「映像の世紀」でもありましたが、それは戦争を起こし、戦争を記録し、挙句に「2001.9.11」の映像を以って、その集大成とした。あの映像がハリウッド映画の新作のクライマックスだったら、僕らはポップコーンを食べ、コカコーラを飲みながら大喝采を送った事でしょう。だからテロリストたちは映画の夢を盗んで、彼らの行動の効果的な宣伝としたのです。つまり僕ら映画人は彼らにヒントを与え続けて来た訳で、あれはテロリストが勝手にやった事と言い逃れは出来ない。

 アメリカのジョージ・ルーカス監督は超人気シリーズ《スター・ウォーズ》の製作を六作で中止した。当初は九作の企画だったのにね。しかしどうして《スター・ウォーズ》だったのだろう。《スター・ピース》だって良かったのにね。それが「兵器」のDNA。
 ルーカスは最近、もう長編大作劇映画は撮らないと宣言したそうです。これをやれば殺戮と破壊までを娯楽にしなければヒットせず、資金回収も覚束無い。それは観客の側の責任でもありますね。どうしても《スター・ウォーズ》になってしまう訳だ。で、ルーカスはこれからは小さな予算で、小さな生命が大自然の中で一所懸命生きている、そんな姿を描いた映画を作りたいのだと。即ち《スター・ピース》の作者になろうという宣言でしょう。
 超娯楽大作ヒットメーカーのルーカスのこうした引退宣言を勿体無いと惜しむ声も多いが、僕は心から称えよう。彼はジャーナリストとしての見識と勇気を示したのだ、と。

 荒唐無稽だとも思われていた二十世紀の映画の夢は、結局はみな実現した。しかも多くは不幸な形で実現した。ならば僕らはこれからは、平和をこそ夢見、それを実現させようと考え、願わねば。科学文明は総てを一律化し、便利快適効率化を目差し、大量生産大景消費の経済をも高度に成長させ得たが、その競争社会の中で急速にナムバーワンを目差せば、結局は戦争に至る。ナムバーツウや考えの違う他者を滅ぼせば、自分は直ちにナムバーワンと成り得るからだ。結果を急ぐファーストライフは、つまりは二十世紀を戦争の世紀として了ったのである。
 これからはオンリーワン。皆それぞれのさまざまな違いを認め合い、許し合って行けば、時間は掛かるが共存共生も可能となるだろう。結果を急げば戦争になるが、ゆっくり理解し合えば平和を生む。スローライフは、だから平和への道筋だ。二十世紀が「競い合って高め合う」世紀であったなら、二十一世紀は「許し合って深め合う」世紀を目差さねばならぬ。それって、まことに愉しい努力じゃないか。大切で必要な事を考えるのは、実はとても愉しい事なのだ。

原作者 山中恒さんと蓮佛美沙子さん

 そんな事を考えながら、新しい《転校生》を作っていた。そんな事を考える必要の無かった二十五年昔の《転校生》とは、だから随分、違った《転校生》になっただろう。従ってこれはリメイクでもノスタルジィでもない。2007年の《転校生》、五十年後へ向けての、今の《転校生》である。
 《転校生》は男の子と女の子の心と身体が入れ替わる、てんやわんやの大騒動を描いた、山中恒さんの児童読み物『おれがあいつであいつがおれで』が原作。ドタバタ大喜劇の上に、こうして互いが互いを理解し合っていく切ない初恋物語。「さよなら おれ」、「さよなら わたし」と呼び合うラストシーンは多くのファンの共感を得て大ヒット。今も尚、熱く語り継がれる伝説の映画だ。
しかし今度の《転校生》は「さよなら あなた」が主題。きちっとした「別れ」の意志が、相手に対する責任と絆を創造していく。
更には相手の生ばかりか、死までを引き受ける覚悟。昔の《転校生》の「のどやかさ」に比べれば、やっぱり「きびしい」時代でありますね。
 でも、愉しさ、おかしさ、切なさ、笑い、泣き、は娯楽映画なのだからたっぷり。喜怒哀楽の人間の感情の中で、五十年後の子供たちに、僕らの思いを伝えよう。

蓮佛さんのバースデーケーキ

 ──人は誰も、生きて物語を残す。人の命には限りがあるが、物語の命は永遠だろう。未来の子供たちよ、今も元気に暮らしていますか?……これが《転校生 さよならあなた》のラストを締め括る言葉である。
 こうして映画は完成した。信州・長野の遅い秋から雪の降らぬ冬。更には冬を無くした尾道でもロケーションを行なった。新しいヒロイン斉藤一美役の蓮佛美沙子は、この初めての主演映画完成の日が、十六歳の誕生日だった。五十年後、彼女は今の僕の年齢に近くなる。彼女の子供が、いやひょっとするとお孫さんが、この映画の観客だ。勇気や希望が沸いて来るではありませんか。そしてその為に努力する愉しさも。
 完成パーティーでの、皆の顔は、だから本当に誇らしく、幸福そうに輝いておりましたよ。2007年3月2日の事でした。

2007年03月22日

日本の古里から考える。

テーマ: かく撮りき

今回の原稿と大分合同新聞

 「寒いですねえ!」。「いやあ、ほんと、芯まで冷えますねえ!」、と誰もが身を竦め、がたがたに震えながら、にこにこしている。
 三月も半ば。辺りは一面の菜の花だ。本来ならば「暖かくなりましたねえ」。「ほんと、もう春ですねえ」、の季節であります。ぼくらは撮影だというので、皆働き易いTシャツ姿で、東京からやって来た。今年は冬が無いとも言っていいほどの暖かさだったから、皆吹き出す汗に備えての薄着で、大分へ戻って来たのでした。すると日本中が、突然の寒さである。撮影は暖かい方が良いに決まっているのだが、この不意の寒さが嬉しくてにこにこしている。「やっと、冬に出合えましたねえ!」。「寒いってのも、やっぱり良いですねえ!」、とがたがたぶるぶる。
 異常な暖冬の中で、ようやく味わう事の出来た冬の寒さ。普通である事は良い。ぼくらも良い撮影が出来るだろう。

陶芸の郷・篠山市今田町

 大分に戻って(敢えて「来て」ではなく、「戻って」と書くが)、二日目の朝。ホテルの窓からの、何でも無い町の景色。去年の四月と五月、そして六月に至るまで、毎日見馴れた景色。陽は爽やかに明るいが、家家や街路を往く人の影がくっきり見えるのは、風が強いからだ。「今日も表は寒そうだぞ!」、と思いっ切りにこにこして息を吸った。

 ──アマチュアは、目が覚めてから起きる。プロは起きてから、目を覚ます。
 若いスタッフにぼくがよく言う言葉。ここ五十年は、ぼくはそうやって、一日、二、三時間の睡眠で生きて来た。目が覚める前に起き出さなければ、これは叶わない。
 一日八時間睡眠が健康には良い、というのは充分に承知している。けれども仮にぼくが九十歳まで生きて映画を撮るとして、一日八時間眠って了うと丸丸三十年間眠る事になる。三十年あれば、ぼくは三十本の映画を作る事が可能だ。自分が作り得る映画を三十本、只眠って無にして了うのは何とも勿体無い。起きられるだけ起きて、考えて映画を作って、死んでからゆっくり眠らせて貰えば良いじゃあないか。で、ともかく起きるのであります。

PSC大分支社の前にて

 今朝もそうやって、えいやっと起き出した。今日からこの大分で、CMの撮影である。去年の四、五、六月は、やはりこの同じホテルに泊まって、映画《22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語》を撮っていた(だから、「戻って来た」のである)。その映画も完成して、いよいよ四月二十八日から、撮影地の大分・福岡から、全国に先駆けて上映が始まる。で、先程は県庁に出向いて、廣瀬知事さんに撮影の御礼と報告を申し上げて来た。何しろ官民一体、大分の人たちと一緒に作った映画でしたからね。  実は東京のぼくの映画製作会社PSCは、この大分にも小さな支社があって(だから、「戻って来た」でもある)、今回のCM作りもそこで行っているのだが、この原稿を書いているぼくの手許に『大分合同新聞』の一頁が開かれている。 《22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語》の上映告知記事で「大分の良さ再確認」と大きな活字が躍っている。
「戦後ずっとお金と物を求めてきた日本人が、ようやくそこから離れ始めたかなあという時代でもあり、深いドラマになると考えた」。「大分はこれから日本人が向かおうとしている暮しが行き続けいる場所。誇りを持ってそれを再認識してもらえたら、少しは(映画作りが大分の人びとの暮しの)役に立ったかなと思う」、とぼく自身の映画製作への思いが記事になっている。ぼくが今回のCM製作も含めて、何かというと大分へ「戻って来る」のも、そういう大分が大好きだからだ。

細山田隆人さん、小林かおりさん、臼杵・後藤市長と左時枝さん(中央)

 大分へ戻る前日には、新幹線の新神戸駅からことことと、日本の田舎の風景の中を車で一時間半程走って、丹波篠山の今田町に居た。山の裾野が一面の焼物の里で五十米に及ぶ登り窯を始め、六十軒の窯元が穏やかに肩を並べている。里へ着くなり迎えて下さった講演先の美術館の副館長さんが「美しいでしょう。この里はもう三十年何も変っておりません」、とにこにこ、胸を張って仰る。これが先ず嬉しかった。変る事ばっかりが求められ続けて来た日本である。殊にこの三十年は、町興し、村興しで開発開発の活性化。変化が無いなんて、むしろ恥だと思われて来た。それが今は「胸張って」の誇りとなっている。しかも窯を守るのはお祖父さんから子孫まで、代代一家揃ってである。過去と未来とが変らず豊かに繋がっている。
 時代は確かに変って来た。つい五、六年前までは地方の里へ出向くと、必ずのように「まあ、こんな何も無い所へ。御不自由をお掛け致します」、と迎えられた。日本人の儀礼というより、そこで暮らしている人たちが、本当にそう思ってらっしゃる風であった。それが近頃では「ここには良い風が吹くでしょう。空気が美味しいでしょう。夜は暗いでしょう。だからお星様が綺麗でしょう。ほらほら水溜りがありますよ。御玉杓子が泳いでいます。もう直き蛙に孵って子供たちと遊びます」、などという迎えの言葉に変わって来た。これは里の人たちの暮しが、文化の暮しに変わって来たからだろう、と思う。  ──文明がそこには無いものに憧れる力であるのに対し、文化とは今ここにあるものを尊む力である、とぼくは考える。どちらも大切な力だが、ここ数十年、ぼくらは余りに文明に憧れ過ぎて、文化の力を忘れて来た。その結果、文明の発達による経済力は重視されたが、文化が生み出す豊かな人の心のありようが失われて行った。それに対する怯えから、今ぼくらは再び“文化”に目を向けようとし始めたのではないか。そう、文化とは、つまりは“古里自慢”なのであります。

女優の勝野雅奈恵さん(右)と臼杵の安東詩織さん(左)

 で、ぼくは嬉しくなって、その日の講演は、大分の話、臼杵の話に終始した。「臼杵って町もね、皆さんの里と同じように、ここ三十年、何も変っていないと自慢なさるんですよ」。そうなのだ。軒先をほんの十五センチ程切断すれば車が曲れる坂道の露路を、燕の巣があるからと軒を守り残そうとする。「来年も燕が戻ってくるからねえ。この町は燕にとっても古里ですから」。それで車はそのまま町の遠くまで行ってから、再び大廻りして戻って来て、今度は真っ直ぐゆっくり、坂を登って行く。街灯が乏しくて暗い夜、道をお歩きの老婦人に危くはないですかと声を掛けると、「いえいえこの町は、昔からちっとも変りませんのでね、有り難い事に目を潰ってでも歩けます。目を開ければ子供の頃と同じお月様が輝いて、真ん中で兎さんがやっぱりお餅を搗いております」、とにこにこ。  竹田にある岡城は天然の山城で、大いに危険でもあるのに柵一つ無い。それでもバスを連ねて観光客が大勢いらっしゃるので「危くはないですか?」、とお聞きすると、「いえいえ、歴史上、ここから落ちて命を亡くした人は只の一人と記録されています。これが柵を施せばたちまち激増致しますよ。柵が無いからお年寄りの身は若者が守り、子供の手は親が決して離さず、桜の季節には酒を飲んでも酒に飲まれず、まことに穏やかな花見が愉しめます」、とは市の観光課の部長さんの談。
 ぼくはすっかり嬉しくなって、妻の恭子プロデューサーと「“臼杵映画”を作ろう」、と決めた所、「止めてください。私たちが残し、守って来たこの町の静けさ、穏やかさを、どうかこのままそっとして置いて下さいな」、と後藤國利市長さんが静かに仰った。そこからこの里との、映画のお付き合いが、ゆっくりと始まったのでありました。
 ──文明とは、より新しくより速く、より高くて効率が良く、ぼくらの暮しを便利に快適にしてくれる優れた道具である。文化とは逆に、より古くより遅く、より深くて効率の悪いもの。不便で我慢も多いが、それを智慧と工夫で乗り越えるから人間は賢くもなり、御褒美だって貰えるのだ。つまり文化の心とは、文明を上手に使い得る人の業なんですね。二十世紀には文明は異常に発達したが、その使い方が追い付かなかった。ぼくらは今、懸命になって、その上手な使い方を学ぼうとし始めたのではないでしょうか。
 臼杵の町で≪なごり雪≫を撮影したのが2001年。クランクインの二日目には、世界を変えたと言われる、ニューヨーク世界貿易センタービル破壊に示される同時多発テロが発生。それからの五年間を、ぼくは東京を舞台に、行き過ぎた文明社会が如何に人の暮しを悲惨にしたかをテーマに≪理由≫という殺人を主軸に据えた映画を作り、一方で大分に何度も戻りつつ、短編映画やCM、そして今年は≪22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語≫を完成させた。なにしろスタッフや俳優さんたちが、何かというと大分へ戻りたがるのである。この里は、ぼくら映画の民の古里ともなったのだ。だからこの地で映画を作っていると、何だか幸福なのである。

寺尾由布樹さん、蛭子収能さん、中村美玲さん(中央)

 左時枝、小林かおり、細山田隆人、寺尾由布樹、中村美玲、勝野雅奈恵、蛭子能収さんら、今回のCM撮影に参加してくれた俳優さんたちも、皆過去に大分で撮影を経験した人ばかり。自主製作の自主参加のようなCM作りで、スポンサーの若き社長さんも、お母様を撮影現場にお連れされたりして、皆みんな、親しき良き仲間。打合げ会には後藤國利臼杵市長までが、今度市が始めた野菜栽培事業で実った、にんじんを手にしてお顔を見せられる。「土と草だけで実って採れた本当のにんじんの味を、それを知らない若い人に伝えたいですからね」。“美しい日本”は、こういう努力の中からこそ、再生されてくるんでしょうね。

 今日も大いに寒いが、ぼくらは元気に働いて、映画を作っております。北の里は記録的な大雪となって、さぞや大変だろうと思いを馳せますが、雪が無くて閉鎖されようとした直前の六十センチの雪で、スキー場が大賑わいとのニュースも伝わって参ります。
 暑さや寒さ、雪や風や雨や日照りの中にぼくらの暮しがある。文明はそういう自然の節理を、やっぱり随分変えて了ったんだろうなあ。日本の地方の里にまだまだ残り、守られ、活かされている文化の暮しを、ぼくらは今こそしっかり学ばねばならないのでしょう。映画がそのために、少しでもお役に立てれば嬉しいです。
 2007年3月13日、大分からの便りです。

2007年03月29日

考えれば、元気になって来る。

テーマ: かく撮りき

飯田市の全景。うーんきれいだなあ。

“古都保存法”というものを、知っていますか?
 実は十五、六年程前から、ぼくはこの“物語”を映画にしようと考え始め、今は益益熱くなって来ている。
 発端は『いざ鎌倉』という書物です。ぼくはこの本により、この“法”の成り立ちを知った。血湧き肉躍る、これぞ“日本の”、“日本人の物語”であります。

 では、映画のように語ってみましょうか。
時は1960年代。日本の高度経済成長からバブルに至る、文明化経済成長社会化の激動の時代が、いよいよこれから始まろうという、まことに未来の空が明かるかった頃。青く美しい海を見渡す鎌倉の山の上に、最先端の文明装置を施した便利快適にして効率化の限りを尽す住宅街を造ろうと夢見た御仁が御座ったそうな。つまりは、時代の願いを一身に纏ったヒーローであった訳ですね。
 そこに“悪役”が登場! 「勿体無や。鎌倉のお山の上に人が住まうとは何事ぞ」、と反対の烽火をあげる。その人物はこの土地の持主にして、明治生れの頑迷な御老人。
 ヒーローの会社のこれまた熱血漢の老職人などは、「私を頸にして下さい。彼奴と刺し違えて、あっしが必ず道を通します」、などと申し出たりもするのだが、事はご想像通り、なかなかうまくは運ばない。
 そのうち、周囲の住民や鎌倉の地に住まう文士たちが、こぞって反対派に回って了う。
 折りしも「文明化、生活の利便化は良い事だ」、と行政の長である神奈川県知事が調停に乗り出す。つまりは頑迷なる時代遅れの御老人を説得しようという訳ですね。
 所が、事件が起きた。鎌倉のお山を望む件の場所に車が到着し、車を降りてお山を見上げた瞬間、
 ──この山に手を触れてはならぬ!
その叫びが、知事さんの口から発せられるのである。
 知事さん御自身、ここへ来て、この山を見るまでは、そんな事など微塵もお考えになっていなかったというのにね。
 それからが更に凄いんだなあ。
 この知事さん、行政の長としては時代の要請を受けて住宅街造成計画に賛成。けれども一個人としては反対派市民運動の署名表第一号となられる。矛盾といえば矛盾だが、この世の事は矛盾に充ちているもの。それを一身に受けて示してみせたのは、「この大切な事を皆で考えてみよう」、という提案、優れたバランス感覚であった、とぼくは思いますね。  そして開発は進めるものの、開発をすればするほど業者が損をする、という風な仕組みが作られたんだそうな! ははあ、そんな事が出来るんですかねえ、とぼくなどはもう感服して了う。
 ドラマのお終いは、開発に失敗した我らがヒーローが、件の頑迷老人に会いに行く。  ──あなたの御蔭で、私は夢も財産もみんな失いました。しかし私は、あなたから何か大切なものを教わったような気がする。その事をこれからの私の人生の中で、ゆっくり考えてみようと思います。
 この静かに一禮するヒーローの姿は美しい、そして揺るぎなく迎えて座す御老人の毅然とした姿もまた美しい。
 これがぼくが作りたいと願っている映画のラストシーンである。

 この一文は天野久彌さん著『いざ鎌倉 御谷騒動回想記』なる書物から草を得て、ぼくが映画風に潤色させて頂いたもので、事実通りではない。みなさんには是非この優れて心温まる原著に目を通して頂きたいのだが、この市民運動は“古都保存法”という法に制定され、思いがけない事にこの法所緑の“古都保存財団”などが、この度“美しい日本の歴史的風土100選”を定め、その中に、ぼくの古里・尾道と、隣の港の鞆の海とが選ばれた。
 さあ、嬉しい事ではあるが、この選定は、この海を観光産業に役立て、町興しの資源にしなさい、という従来の“高度経済成長期”や“バブル期”のそれとは一線を画するものであるだろう。
 即ち、
 ──この海に手を触れてはならぬ、(実際には「之は壊してはならぬ」である。)の思想によるものであると考えなければ……。

鞆の浦の架橋反対「支援する会」記者発表の様子

 鞆の港は今、港の海を埋めて架橋しようという行政措置が進められている。勿論それはその地域で暮らす市民の方方の願いでもあり、百年前からの港を成す装置が現存されている古い町だから、道幅は当然狭く、車が走行するには時間も掛り、ひどく難儀な事態である。現代にそぐう生活や、未来に向かうこの町の発展には、架橋を施し、リゾートホテルを造り、橋からの眺望を売り物にすれば、新しい観光施設も開始出来、町は大いに発展するだろうという考え方があるのも、頷けはする。
 けれども同時に、この町に暮らすある御婦人などは、「わたしたち、昔はこの海に続く雁木を下って海に入ると、魚が体に纏わりついて来て、それは楽しく遊べたもの。あの想い出は、わたしの生涯の宝物です。だからわたしの子供や孫たちにも、同じ幸福をきちんと残してやりたいんです」。
 今はゲーム機が豊富にあるから、子供はそれで遊べばいい、と言うのは、高度経済成長期に、日本の子供たちをも顧客にしていったぼくら大人の罪の上塗りである。「海も残し、ゲーム機もあるよ」、というのが文明社会の良き発達の姿であり、ゲーム機があるから海は要らないと言うのは、大人社会の身勝手であるだろう。

 その鞆のお母さんたちが、今度、古里の海や港の暮しを残し、守り、未来に伝えるために運動を起され、ぼくもその“支援会”の呼び掛け人の一人として参加させて頂いた。
 九州大分から帰った翌日が、東京での発足記者発表。「これは決して、“反対運動”ではなく、“大切な事を皆で考えよう”」、がぼくらの立場。鞆の海や港の暮しは、未来の子供たちに、現代の大人としてのぼくらが守り、残さねばならぬ、重要な資源であるとぼくらは信じるので。

さくら国際高等学校の講演会

 その夜は“日本映画監督協会”の新人賞最終銓衡会議。若い作家の作品四十本を観せて貰ったが、ここには間違いなく日本の未来に向かう確たる願望が潜在していた。即ち、希望の根っ子が出来している。

 翌日は、信州・長野で“生涯学習”の講演。「人は生涯を通じて、“?”を大きく育てることが大事。結論を直ぐには出さず、考え続ける事。宇宙の節理は無限にあり、人間が辿り着けるのはほんの一部。成長の先は未来の子供たちに委ねつつ、ぼくらは考え続け、疑問を持ち続ける事で、人間の成長の過程を豊かにしよう。ぼくら大人の“続き”を子供らは生きて行くのだから、つまらぬ結果より、楽しい過程を学び育てよう」、と語らせて貰った。

上田からみた信州の山並み

 その翌日は、信州・上田。『さくら国際高等学校』、という現代社会の制度や学校教育の現場からはみ出した、優れた“個性”を持つ子供たちと、近隣の里の大人たちが共に作り出した学びの舎で話す。「宇宙からの旅人が地球を訪れる時、最初に訪ねて来たい里」とも思われる、美しい賢人の里である。独鈷山という山裾の、古い木造校舎で、日本の明日の希望を一心に手繰り寄せようと、愉しく暮らしてらっしゃる荒井裕司校長先生に、上田の探訪でお馴染みの母袋創一市長、東京から駆け付けて来てくれた友人で脚本家の石森史郎さんらと、愉しく語らう。

 翌日は東京の事務所で、九州・大分でのCMの編集。良い笑顔が小さなフィルムの中で笑っている。後藤國利市長のにんじんが届いて、皆で戴いた。土と草で育った臼杵のにんじんは、まことにうまかった。

長野市生涯学習センターでの講演会

 そして翌日は、今度は名古屋からやはり信州の飯田市へ。偶然長野県が続くのだが、その事と長野で≪転校生≫を作った事とは、どこかで“必然”として繋がっているのだろうか。講演の約束は映画製作のスケジュールとは別に、その前から進められていたのになあ、と事の成り行きと筋道に大いなる不思議を感じる。  そうしたら飯田市の牧野光朗市長さんはお会いするなり、「私、臼杵の後藤市長と親しくさせて頂いてるんです。後藤市長も、二度程、この飯田へいらっしゃいましたよ」、とはもうびっくり。勿論それでこの地に呼ばれた訳ではなく、これも全くの“偶然”の“必然”!

サカエ横裏界線・飯田市

 “裏界線”と名付けられた、いわば“裏路地”がこの町には沢山あって、それはおおよそ五十年前、この町に大火があり、その学習から待避路として夫夫の家が一メートルずつ敷地を出し合って、二メートル幅の裏路地が生れたのだという。  折角のこの空間をどう活かすかというシンポジウムと基調講演で、地元の方とも話が出来て愉しかった。露地などなくしていこうと、町にあった裏路地がどんどん失われて行った今、裏路地を残し守り活かそうという動きには大いに希望が見えてくる。
 そう言えばぼくは長野の《転校生》の撮影で、裏露路ばかりキャメラを向けていたのだっけ!

 今、日本は確実に変わりつつある。変わらなければならないだろう、と考え続けた一週間でありました。

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