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かく撮りき アーカイブ

2007年03月15日

新しい《転校生》が完成した。

 暖冬は、普段の暮しの中では有難いものだった。「暖かいですね」、「助かりますね」。しかし今年は、有難がってばかりはいられない。「一寸、恐いですね」、「冬はやっぱり寒くなくちゃね」、と僕らの挨拶も変わってくる。人間は、言葉で考え、言葉で語る。暮しの中の言葉の変化を観察していると、時代の動きがよく判る。

試写会場の様子

 ──五十年後の長野の子供たちに見せたい、伝えたい映画を、と信州・長野の人から依頼を受けた。映画は大きなビジネスでもあるから、普段は「今日、儲かる映画を」、である。それが「五十年後」とは、純粋に文化・芸術としての依頼である。これは嬉しかった。誇らしかった。
 偶然のように、同じ長野の講演先で、四十代の男性から、「昔、十代の頃《転校生》という映画を見た幸福が忘れられません。今わたしの息子が十代ですが、見せたい映画が有りません。どうかもう一度《転校生》のような映画を」、と懇願された。

 時代が求め、願うものが、明らかに変化している。僕は映画作家であり、文化・芸術の徒であるのだが、それは「劇映画」をペンやカメラ代わりにして、娯楽で物を語るジャーナリストである、と自覚している。僕らが日常生活の中で嫌な事、辛い事、忘れていた方が楽な事、けれどもやっぱり考え続けなければならない大切な事に対して、笑ったり泣いたりしながら愉しく向き合い、考え易く、語り合い易くしてくれるものが、映画である、とは大先輩の黒澤明監督も仰っていた。だから黒澤映画が描いて来た物語は、新聞で言うなら第一面か社会面のトップ記事のような事象ばかりだ。例えば《天国と地獄》のような貧富の差が生み出す幼児誘拐事件。政財界の腐敗と汚職に目を向けた《悪い奴ほどよく眠る》。マスコミの暴力を扱った《醜聞(スキャンダル)》。原水爆の恐怖からノイローゼとなり、家族もろともブラジルに移住しようとする父親と一家の確執を軸にした《生きものの記憶》。癌で死にゆく一庶民の生きがいを称えた《生きる》。貧しい恋人二人の細やかな幸福を願う《素晴らしき日曜日》。更には、武士の美学と農民の生きる智慧を対比した《七人の侍》。娯楽時代劇の一篇《椿三十郎》にだって、滅法強い正義の剣豪三船三十郎をお城の奥方がゆったり諭して語る「あなたはまるで抜身の刀です。本当に良い刀とは、きちんと鞘に納まっているものですよ」の一言は、現代の抜身の刀の如き文明、経済の使い方に対して、美しく賢い人間のありようを諭されているようだ。そして黒澤映画は、どんなに醜い悲しい事象を描き、告発していても、結末では人間の勇気と希望を手繰り寄せようと努力する。決して絶望のままでは終わらない。黒澤明は、人間を信じ、信じようとしている。それが世界の人の心を動かし、優れた娯楽にも芸術にもジャーナリズムにもなり得た。そしてそれこそが、文化・芸術の役割であったのだ。

左から厚木拓郎さん、宍戸錠さん、蓮佛美沙子さん、森田直幸さん

 その上で、僕は「五十年後」を考えてみよう。それはまことに恐ろしい。果して五十年後のこの日本に、世界に、地球上に、人間は無事生きて暮らしているのだろうか? そして、子供たちは? 現在は五十年後の平穏が、俄には信じ難い時代である。五十年後の子供たちにこの映画を伝えるには、五十年後の地球上に彼らを無事存在させてやる努力から、僕らは始めなければならない。五十年後に子供たちが生き続けている条件は、只一つ。世界から戦争を無くし、そこに平和が創造されている事。その為に、僕らは今何をすべきなのか?
 二十世紀は、戦争の世紀でありました。科学文明の殆どは、実は「兵器」として発展して来たのです。恐ろしい事に、経済もまた。映画の機器も兵器という目的があって開発され続けて来た。二十世紀は「映像の世紀」でもありましたが、それは戦争を起こし、戦争を記録し、挙句に「2001.9.11」の映像を以って、その集大成とした。あの映像がハリウッド映画の新作のクライマックスだったら、僕らはポップコーンを食べ、コカコーラを飲みながら大喝采を送った事でしょう。だからテロリストたちは映画の夢を盗んで、彼らの行動の効果的な宣伝としたのです。つまり僕ら映画人は彼らにヒントを与え続けて来た訳で、あれはテロリストが勝手にやった事と言い逃れは出来ない。

 アメリカのジョージ・ルーカス監督は超人気シリーズ《スター・ウォーズ》の製作を六作で中止した。当初は九作の企画だったのにね。しかしどうして《スター・ウォーズ》だったのだろう。《スター・ピース》だって良かったのにね。それが「兵器」のDNA。
 ルーカスは最近、もう長編大作劇映画は撮らないと宣言したそうです。これをやれば殺戮と破壊までを娯楽にしなければヒットせず、資金回収も覚束無い。それは観客の側の責任でもありますね。どうしても《スター・ウォーズ》になってしまう訳だ。で、ルーカスはこれからは小さな予算で、小さな生命が大自然の中で一所懸命生きている、そんな姿を描いた映画を作りたいのだと。即ち《スター・ピース》の作者になろうという宣言でしょう。
 超娯楽大作ヒットメーカーのルーカスのこうした引退宣言を勿体無いと惜しむ声も多いが、僕は心から称えよう。彼はジャーナリストとしての見識と勇気を示したのだ、と。

 荒唐無稽だとも思われていた二十世紀の映画の夢は、結局はみな実現した。しかも多くは不幸な形で実現した。ならば僕らはこれからは、平和をこそ夢見、それを実現させようと考え、願わねば。科学文明は総てを一律化し、便利快適効率化を目差し、大量生産大景消費の経済をも高度に成長させ得たが、その競争社会の中で急速にナムバーワンを目差せば、結局は戦争に至る。ナムバーツウや考えの違う他者を滅ぼせば、自分は直ちにナムバーワンと成り得るからだ。結果を急ぐファーストライフは、つまりは二十世紀を戦争の世紀として了ったのである。
 これからはオンリーワン。皆それぞれのさまざまな違いを認め合い、許し合って行けば、時間は掛かるが共存共生も可能となるだろう。結果を急げば戦争になるが、ゆっくり理解し合えば平和を生む。スローライフは、だから平和への道筋だ。二十世紀が「競い合って高め合う」世紀であったなら、二十一世紀は「許し合って深め合う」世紀を目差さねばならぬ。それって、まことに愉しい努力じゃないか。大切で必要な事を考えるのは、実はとても愉しい事なのだ。

原作者 山中恒さんと蓮佛美沙子さん

 そんな事を考えながら、新しい《転校生》を作っていた。そんな事を考える必要の無かった二十五年昔の《転校生》とは、だから随分、違った《転校生》になっただろう。従ってこれはリメイクでもノスタルジィでもない。2007年の《転校生》、五十年後へ向けての、今の《転校生》である。
 《転校生》は男の子と女の子の心と身体が入れ替わる、てんやわんやの大騒動を描いた、山中恒さんの児童読み物『おれがあいつであいつがおれで』が原作。ドタバタ大喜劇の上に、こうして互いが互いを理解し合っていく切ない初恋物語。「さよなら おれ」、「さよなら わたし」と呼び合うラストシーンは多くのファンの共感を得て大ヒット。今も尚、熱く語り継がれる伝説の映画だ。
しかし今度の《転校生》は「さよなら あなた」が主題。きちっとした「別れ」の意志が、相手に対する責任と絆を創造していく。
更には相手の生ばかりか、死までを引き受ける覚悟。昔の《転校生》の「のどやかさ」に比べれば、やっぱり「きびしい」時代でありますね。
 でも、愉しさ、おかしさ、切なさ、笑い、泣き、は娯楽映画なのだからたっぷり。喜怒哀楽の人間の感情の中で、五十年後の子供たちに、僕らの思いを伝えよう。

蓮佛さんのバースデーケーキ

 ──人は誰も、生きて物語を残す。人の命には限りがあるが、物語の命は永遠だろう。未来の子供たちよ、今も元気に暮らしていますか?……これが《転校生 さよならあなた》のラストを締め括る言葉である。
 こうして映画は完成した。信州・長野の遅い秋から雪の降らぬ冬。更には冬を無くした尾道でもロケーションを行なった。新しいヒロイン斉藤一美役の蓮佛美沙子は、この初めての主演映画完成の日が、十六歳の誕生日だった。五十年後、彼女は今の僕の年齢に近くなる。彼女の子供が、いやひょっとするとお孫さんが、この映画の観客だ。勇気や希望が沸いて来るではありませんか。そしてその為に努力する愉しさも。
 完成パーティーでの、皆の顔は、だから本当に誇らしく、幸福そうに輝いておりましたよ。2007年3月2日の事でした。

2007年03月22日

日本の古里から考える。

今回の原稿と大分合同新聞

 「寒いですねえ!」。「いやあ、ほんと、芯まで冷えますねえ!」、と誰もが身を竦め、がたがたに震えながら、にこにこしている。
 三月も半ば。辺りは一面の菜の花だ。本来ならば「暖かくなりましたねえ」。「ほんと、もう春ですねえ」、の季節であります。ぼくらは撮影だというので、皆働き易いTシャツ姿で、東京からやって来た。今年は冬が無いとも言っていいほどの暖かさだったから、皆吹き出す汗に備えての薄着で、大分へ戻って来たのでした。すると日本中が、突然の寒さである。撮影は暖かい方が良いに決まっているのだが、この不意の寒さが嬉しくてにこにこしている。「やっと、冬に出合えましたねえ!」。「寒いってのも、やっぱり良いですねえ!」、とがたがたぶるぶる。
 異常な暖冬の中で、ようやく味わう事の出来た冬の寒さ。普通である事は良い。ぼくらも良い撮影が出来るだろう。

陶芸の郷・篠山市今田町

 大分に戻って(敢えて「来て」ではなく、「戻って」と書くが)、二日目の朝。ホテルの窓からの、何でも無い町の景色。去年の四月と五月、そして六月に至るまで、毎日見馴れた景色。陽は爽やかに明るいが、家家や街路を往く人の影がくっきり見えるのは、風が強いからだ。「今日も表は寒そうだぞ!」、と思いっ切りにこにこして息を吸った。

 ──アマチュアは、目が覚めてから起きる。プロは起きてから、目を覚ます。
 若いスタッフにぼくがよく言う言葉。ここ五十年は、ぼくはそうやって、一日、二、三時間の睡眠で生きて来た。目が覚める前に起き出さなければ、これは叶わない。
 一日八時間睡眠が健康には良い、というのは充分に承知している。けれども仮にぼくが九十歳まで生きて映画を撮るとして、一日八時間眠って了うと丸丸三十年間眠る事になる。三十年あれば、ぼくは三十本の映画を作る事が可能だ。自分が作り得る映画を三十本、只眠って無にして了うのは何とも勿体無い。起きられるだけ起きて、考えて映画を作って、死んでからゆっくり眠らせて貰えば良いじゃあないか。で、ともかく起きるのであります。

PSC大分支社の前にて

 今朝もそうやって、えいやっと起き出した。今日からこの大分で、CMの撮影である。去年の四、五、六月は、やはりこの同じホテルに泊まって、映画《22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語》を撮っていた(だから、「戻って来た」のである)。その映画も完成して、いよいよ四月二十八日から、撮影地の大分・福岡から、全国に先駆けて上映が始まる。で、先程は県庁に出向いて、廣瀬知事さんに撮影の御礼と報告を申し上げて来た。何しろ官民一体、大分の人たちと一緒に作った映画でしたからね。  実は東京のぼくの映画製作会社PSCは、この大分にも小さな支社があって(だから、「戻って来た」でもある)、今回のCM作りもそこで行っているのだが、この原稿を書いているぼくの手許に『大分合同新聞』の一頁が開かれている。 《22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語》の上映告知記事で「大分の良さ再確認」と大きな活字が躍っている。
「戦後ずっとお金と物を求めてきた日本人が、ようやくそこから離れ始めたかなあという時代でもあり、深いドラマになると考えた」。「大分はこれから日本人が向かおうとしている暮しが行き続けいる場所。誇りを持ってそれを再認識してもらえたら、少しは(映画作りが大分の人びとの暮しの)役に立ったかなと思う」、とぼく自身の映画製作への思いが記事になっている。ぼくが今回のCM製作も含めて、何かというと大分へ「戻って来る」のも、そういう大分が大好きだからだ。

細山田隆人さん、小林かおりさん、臼杵・後藤市長と左時枝さん(中央)

 大分へ戻る前日には、新幹線の新神戸駅からことことと、日本の田舎の風景の中を車で一時間半程走って、丹波篠山の今田町に居た。山の裾野が一面の焼物の里で五十米に及ぶ登り窯を始め、六十軒の窯元が穏やかに肩を並べている。里へ着くなり迎えて下さった講演先の美術館の副館長さんが「美しいでしょう。この里はもう三十年何も変っておりません」、とにこにこ、胸を張って仰る。これが先ず嬉しかった。変る事ばっかりが求められ続けて来た日本である。殊にこの三十年は、町興し、村興しで開発開発の活性化。変化が無いなんて、むしろ恥だと思われて来た。それが今は「胸張って」の誇りとなっている。しかも窯を守るのはお祖父さんから子孫まで、代代一家揃ってである。過去と未来とが変らず豊かに繋がっている。
 時代は確かに変って来た。つい五、六年前までは地方の里へ出向くと、必ずのように「まあ、こんな何も無い所へ。御不自由をお掛け致します」、と迎えられた。日本人の儀礼というより、そこで暮らしている人たちが、本当にそう思ってらっしゃる風であった。それが近頃では「ここには良い風が吹くでしょう。空気が美味しいでしょう。夜は暗いでしょう。だからお星様が綺麗でしょう。ほらほら水溜りがありますよ。御玉杓子が泳いでいます。もう直き蛙に孵って子供たちと遊びます」、などという迎えの言葉に変わって来た。これは里の人たちの暮しが、文化の暮しに変わって来たからだろう、と思う。  ──文明がそこには無いものに憧れる力であるのに対し、文化とは今ここにあるものを尊む力である、とぼくは考える。どちらも大切な力だが、ここ数十年、ぼくらは余りに文明に憧れ過ぎて、文化の力を忘れて来た。その結果、文明の発達による経済力は重視されたが、文化が生み出す豊かな人の心のありようが失われて行った。それに対する怯えから、今ぼくらは再び“文化”に目を向けようとし始めたのではないか。そう、文化とは、つまりは“古里自慢”なのであります。

女優の勝野雅奈恵さん(右)と臼杵の安東詩織さん(左)

 で、ぼくは嬉しくなって、その日の講演は、大分の話、臼杵の話に終始した。「臼杵って町もね、皆さんの里と同じように、ここ三十年、何も変っていないと自慢なさるんですよ」。そうなのだ。軒先をほんの十五センチ程切断すれば車が曲れる坂道の露路を、燕の巣があるからと軒を守り残そうとする。「来年も燕が戻ってくるからねえ。この町は燕にとっても古里ですから」。それで車はそのまま町の遠くまで行ってから、再び大廻りして戻って来て、今度は真っ直ぐゆっくり、坂を登って行く。街灯が乏しくて暗い夜、道をお歩きの老婦人に危くはないですかと声を掛けると、「いえいえこの町は、昔からちっとも変りませんのでね、有り難い事に目を潰ってでも歩けます。目を開ければ子供の頃と同じお月様が輝いて、真ん中で兎さんがやっぱりお餅を搗いております」、とにこにこ。  竹田にある岡城は天然の山城で、大いに危険でもあるのに柵一つ無い。それでもバスを連ねて観光客が大勢いらっしゃるので「危くはないですか?」、とお聞きすると、「いえいえ、歴史上、ここから落ちて命を亡くした人は只の一人と記録されています。これが柵を施せばたちまち激増致しますよ。柵が無いからお年寄りの身は若者が守り、子供の手は親が決して離さず、桜の季節には酒を飲んでも酒に飲まれず、まことに穏やかな花見が愉しめます」、とは市の観光課の部長さんの談。
 ぼくはすっかり嬉しくなって、妻の恭子プロデューサーと「“臼杵映画”を作ろう」、と決めた所、「止めてください。私たちが残し、守って来たこの町の静けさ、穏やかさを、どうかこのままそっとして置いて下さいな」、と後藤國利市長さんが静かに仰った。そこからこの里との、映画のお付き合いが、ゆっくりと始まったのでありました。
 ──文明とは、より新しくより速く、より高くて効率が良く、ぼくらの暮しを便利に快適にしてくれる優れた道具である。文化とは逆に、より古くより遅く、より深くて効率の悪いもの。不便で我慢も多いが、それを智慧と工夫で乗り越えるから人間は賢くもなり、御褒美だって貰えるのだ。つまり文化の心とは、文明を上手に使い得る人の業なんですね。二十世紀には文明は異常に発達したが、その使い方が追い付かなかった。ぼくらは今、懸命になって、その上手な使い方を学ぼうとし始めたのではないでしょうか。
 臼杵の町で≪なごり雪≫を撮影したのが2001年。クランクインの二日目には、世界を変えたと言われる、ニューヨーク世界貿易センタービル破壊に示される同時多発テロが発生。それからの五年間を、ぼくは東京を舞台に、行き過ぎた文明社会が如何に人の暮しを悲惨にしたかをテーマに≪理由≫という殺人を主軸に据えた映画を作り、一方で大分に何度も戻りつつ、短編映画やCM、そして今年は≪22才の別れ Lycoris葉見ず花見ず物語≫を完成させた。なにしろスタッフや俳優さんたちが、何かというと大分へ戻りたがるのである。この里は、ぼくら映画の民の古里ともなったのだ。だからこの地で映画を作っていると、何だか幸福なのである。

寺尾由布樹さん、蛭子収能さん、中村美玲さん(中央)

 左時枝、小林かおり、細山田隆人、寺尾由布樹、中村美玲、勝野雅奈恵、蛭子能収さんら、今回のCM撮影に参加してくれた俳優さんたちも、皆過去に大分で撮影を経験した人ばかり。自主製作の自主参加のようなCM作りで、スポンサーの若き社長さんも、お母様を撮影現場にお連れされたりして、皆みんな、親しき良き仲間。打合げ会には後藤國利臼杵市長までが、今度市が始めた野菜栽培事業で実った、にんじんを手にしてお顔を見せられる。「土と草だけで実って採れた本当のにんじんの味を、それを知らない若い人に伝えたいですからね」。“美しい日本”は、こういう努力の中からこそ、再生されてくるんでしょうね。

 今日も大いに寒いが、ぼくらは元気に働いて、映画を作っております。北の里は記録的な大雪となって、さぞや大変だろうと思いを馳せますが、雪が無くて閉鎖されようとした直前の六十センチの雪で、スキー場が大賑わいとのニュースも伝わって参ります。
 暑さや寒さ、雪や風や雨や日照りの中にぼくらの暮しがある。文明はそういう自然の節理を、やっぱり随分変えて了ったんだろうなあ。日本の地方の里にまだまだ残り、守られ、活かされている文化の暮しを、ぼくらは今こそしっかり学ばねばならないのでしょう。映画がそのために、少しでもお役に立てれば嬉しいです。
 2007年3月13日、大分からの便りです。

2007年03月29日

考えれば、元気になって来る。

飯田市の全景。うーんきれいだなあ。

“古都保存法”というものを、知っていますか?
 実は十五、六年程前から、ぼくはこの“物語”を映画にしようと考え始め、今は益益熱くなって来ている。
 発端は『いざ鎌倉』という書物です。ぼくはこの本により、この“法”の成り立ちを知った。血湧き肉躍る、これぞ“日本の”、“日本人の物語”であります。

 では、映画のように語ってみましょうか。
時は1960年代。日本の高度経済成長からバブルに至る、文明化経済成長社会化の激動の時代が、いよいよこれから始まろうという、まことに未来の空が明かるかった頃。青く美しい海を見渡す鎌倉の山の上に、最先端の文明装置を施した便利快適にして効率化の限りを尽す住宅街を造ろうと夢見た御仁が御座ったそうな。つまりは、時代の願いを一身に纏ったヒーローであった訳ですね。
 そこに“悪役”が登場! 「勿体無や。鎌倉のお山の上に人が住まうとは何事ぞ」、と反対の烽火をあげる。その人物はこの土地の持主にして、明治生れの頑迷な御老人。
 ヒーローの会社のこれまた熱血漢の老職人などは、「私を頸にして下さい。彼奴と刺し違えて、あっしが必ず道を通します」、などと申し出たりもするのだが、事はご想像通り、なかなかうまくは運ばない。
 そのうち、周囲の住民や鎌倉の地に住まう文士たちが、こぞって反対派に回って了う。
 折りしも「文明化、生活の利便化は良い事だ」、と行政の長である神奈川県知事が調停に乗り出す。つまりは頑迷なる時代遅れの御老人を説得しようという訳ですね。
 所が、事件が起きた。鎌倉のお山を望む件の場所に車が到着し、車を降りてお山を見上げた瞬間、
 ──この山に手を触れてはならぬ!
その叫びが、知事さんの口から発せられるのである。
 知事さん御自身、ここへ来て、この山を見るまでは、そんな事など微塵もお考えになっていなかったというのにね。
 それからが更に凄いんだなあ。
 この知事さん、行政の長としては時代の要請を受けて住宅街造成計画に賛成。けれども一個人としては反対派市民運動の署名表第一号となられる。矛盾といえば矛盾だが、この世の事は矛盾に充ちているもの。それを一身に受けて示してみせたのは、「この大切な事を皆で考えてみよう」、という提案、優れたバランス感覚であった、とぼくは思いますね。  そして開発は進めるものの、開発をすればするほど業者が損をする、という風な仕組みが作られたんだそうな! ははあ、そんな事が出来るんですかねえ、とぼくなどはもう感服して了う。
 ドラマのお終いは、開発に失敗した我らがヒーローが、件の頑迷老人に会いに行く。  ──あなたの御蔭で、私は夢も財産もみんな失いました。しかし私は、あなたから何か大切なものを教わったような気がする。その事をこれからの私の人生の中で、ゆっくり考えてみようと思います。
 この静かに一禮するヒーローの姿は美しい、そして揺るぎなく迎えて座す御老人の毅然とした姿もまた美しい。
 これがぼくが作りたいと願っている映画のラストシーンである。

 この一文は天野久彌さん著『いざ鎌倉 御谷騒動回想記』なる書物から草を得て、ぼくが映画風に潤色させて頂いたもので、事実通りではない。みなさんには是非この優れて心温まる原著に目を通して頂きたいのだが、この市民運動は“古都保存法”という法に制定され、思いがけない事にこの法所緑の“古都保存財団”などが、この度“美しい日本の歴史的風土100選”を定め、その中に、ぼくの古里・尾道と、隣の港の鞆の海とが選ばれた。
 さあ、嬉しい事ではあるが、この選定は、この海を観光産業に役立て、町興しの資源にしなさい、という従来の“高度経済成長期”や“バブル期”のそれとは一線を画するものであるだろう。
 即ち、
 ──この海に手を触れてはならぬ、(実際には「之は壊してはならぬ」である。)の思想によるものであると考えなければ……。

鞆の浦の架橋反対「支援する会」記者発表の様子

 鞆の港は今、港の海を埋めて架橋しようという行政措置が進められている。勿論それはその地域で暮らす市民の方方の願いでもあり、百年前からの港を成す装置が現存されている古い町だから、道幅は当然狭く、車が走行するには時間も掛り、ひどく難儀な事態である。現代にそぐう生活や、未来に向かうこの町の発展には、架橋を施し、リゾートホテルを造り、橋からの眺望を売り物にすれば、新しい観光施設も開始出来、町は大いに発展するだろうという考え方があるのも、頷けはする。
 けれども同時に、この町に暮らすある御婦人などは、「わたしたち、昔はこの海に続く雁木を下って海に入ると、魚が体に纏わりついて来て、それは楽しく遊べたもの。あの想い出は、わたしの生涯の宝物です。だからわたしの子供や孫たちにも、同じ幸福をきちんと残してやりたいんです」。
 今はゲーム機が豊富にあるから、子供はそれで遊べばいい、と言うのは、高度経済成長期に、日本の子供たちをも顧客にしていったぼくら大人の罪の上塗りである。「海も残し、ゲーム機もあるよ」、というのが文明社会の良き発達の姿であり、ゲーム機があるから海は要らないと言うのは、大人社会の身勝手であるだろう。

 その鞆のお母さんたちが、今度、古里の海や港の暮しを残し、守り、未来に伝えるために運動を起され、ぼくもその“支援会”の呼び掛け人の一人として参加させて頂いた。
 九州大分から帰った翌日が、東京での発足記者発表。「これは決して、“反対運動”ではなく、“大切な事を皆で考えよう”」、がぼくらの立場。鞆の海や港の暮しは、未来の子供たちに、現代の大人としてのぼくらが守り、残さねばならぬ、重要な資源であるとぼくらは信じるので。

さくら国際高等学校の講演会

 その夜は“日本映画監督協会”の新人賞最終銓衡会議。若い作家の作品四十本を観せて貰ったが、ここには間違いなく日本の未来に向かう確たる願望が潜在していた。即ち、希望の根っ子が出来している。

 翌日は、信州・長野で“生涯学習”の講演。「人は生涯を通じて、“?”を大きく育てることが大事。結論を直ぐには出さず、考え続ける事。宇宙の節理は無限にあり、人間が辿り着けるのはほんの一部。成長の先は未来の子供たちに委ねつつ、ぼくらは考え続け、疑問を持ち続ける事で、人間の成長の過程を豊かにしよう。ぼくら大人の“続き”を子供らは生きて行くのだから、つまらぬ結果より、楽しい過程を学び育てよう」、と語らせて貰った。

上田からみた信州の山並み

 その翌日は、信州・上田。『さくら国際高等学校』、という現代社会の制度や学校教育の現場からはみ出した、優れた“個性”を持つ子供たちと、近隣の里の大人たちが共に作り出した学びの舎で話す。「宇宙からの旅人が地球を訪れる時、最初に訪ねて来たい里」とも思われる、美しい賢人の里である。独鈷山という山裾の、古い木造校舎で、日本の明日の希望を一心に手繰り寄せようと、愉しく暮らしてらっしゃる荒井裕司校長先生に、上田の探訪でお馴染みの母袋創一市長、東京から駆け付けて来てくれた友人で脚本家の石森史郎さんらと、愉しく語らう。

 翌日は東京の事務所で、九州・大分でのCMの編集。良い笑顔が小さなフィルムの中で笑っている。後藤國利市長のにんじんが届いて、皆で戴いた。土と草で育った臼杵のにんじんは、まことにうまかった。

長野市生涯学習センターでの講演会

 そして翌日は、今度は名古屋からやはり信州の飯田市へ。偶然長野県が続くのだが、その事と長野で≪転校生≫を作った事とは、どこかで“必然”として繋がっているのだろうか。講演の約束は映画製作のスケジュールとは別に、その前から進められていたのになあ、と事の成り行きと筋道に大いなる不思議を感じる。  そうしたら飯田市の牧野光朗市長さんはお会いするなり、「私、臼杵の後藤市長と親しくさせて頂いてるんです。後藤市長も、二度程、この飯田へいらっしゃいましたよ」、とはもうびっくり。勿論それでこの地に呼ばれた訳ではなく、これも全くの“偶然”の“必然”!

サカエ横裏界線・飯田市

 “裏界線”と名付けられた、いわば“裏路地”がこの町には沢山あって、それはおおよそ五十年前、この町に大火があり、その学習から待避路として夫夫の家が一メートルずつ敷地を出し合って、二メートル幅の裏路地が生れたのだという。  折角のこの空間をどう活かすかというシンポジウムと基調講演で、地元の方とも話が出来て愉しかった。露地などなくしていこうと、町にあった裏路地がどんどん失われて行った今、裏路地を残し守り活かそうという動きには大いに希望が見えてくる。
 そう言えばぼくは長野の《転校生》の撮影で、裏露路ばかりキャメラを向けていたのだっけ!

 今、日本は確実に変わりつつある。変わらなければならないだろう、と考え続けた一週間でありました。

2007年04月19日

植木等さんのこと

 ぼくはテレヴィはあまり見ない人間だが、そんなぼくでもテレヴィのスウィッチを付けると、植木等さんの(それもお若い頃の)姿が、ひょいっと飛び出して来る。植木さんが亡くなられて、その追悼番組として、昔の植木さんの出演映画が、色色と放映されているのでありましょう。

 いわゆる“無責任男”として、日本の“高度経済成長期”の真っ只中をシンボルの如く駆け抜けて来られたが、植木さんは知る人ぞ知る“超”の字付きの真面目なお方。でもあの真面目さで、しかも誠実に一所懸命演じられたからこそ、あの“無責任男”の面白さもリアリティも醸造出来たのだとは、今更にして深く思う。今時の“おふざけ”が“お笑い”になると安易に信じられている時代とは、そこはくっきり違うのだ。
 そういえば植木さん主演の昔の映画の画面を見ていると、「やっぱり映画だなあ」、と沁み沁み思う。昨今のテレヴィの映像とは、これまたくっきりと違うのだ。映画の撮影所の持つ、きちんとした引き気味のキャメラに、照明もちゃんと当てられた画面作りの技術がしっかり現わされていて、植木さんの映画は決して“名作”と称される作りではないのだが、こういう大衆向きの娯楽映画の中でも、映画の画面は映画の画面なのである。
 そういえば昨今は映画の大作・名作を志す場合でも、画面はテレヴィのふんわり軽い映像のまま。むしろそれを望んでいるとさえ思われるのも、これが時代の趨勢なるものであるのかしらん。
 ぼくなどは、映画はやっぱり映画だ、と思うものだから、《22才の別れ》でも《転校生》でも、そこは映画的な画面作りを試みた。お客様には、映画的興奮をこそ味わって戴きたいと願ったからである。
 この二本の映画で「何故画面を傾けたのですか?」、とよく聞かれるが、確たる言葉に出来る理由があったからではない。只、あの画面の傾き方は、映画館の大きなスクリーンでこそ効果が現われるもので、テレヴィの小さな映像では、只一寸気に掛る程度で終わって了う小技でしかないのだ。詰りはあれは映画的技法であるからこそ使ったのだ、としか言いようが無いのですね。

 所で、植木等さんには、ぼくの映画《あした》にもご出演戴いている。1995年作品だから、もう十二年前の事になる。実は昨年ある九州熊本で撮入する予定の映画にお誘いしたのだが、「九州の夏は自信が御座りませんので」、と大層丁寧に辞退された。その時お会いした谷啓さんも、昨秋《転校生》に御出演戴いた犬塚弘さんも、「最近植木が弱ってましてねえ」、と案じていられたので心配していたのだが。ぼくは数年前、九州大分の平松守彦前知事が引退される時の小さなパーティーで植木さんとはお会いしていたが、それに続いて2004年春、ぼくが紫綬褒章を受章した時の細やかなパーティーにメインゲストで来て戴き、上機嫌でユーモラスなスピーチをして下さった。「植木さん、また是非ご一緒に映画を作りましょうよ」、と申し上げると、「はっはっはっ、またあのカントクさんの駄洒落と一緒にねえ!」、と我が恭子さんに向かって、大きくウインクなさったことだった。

 《あした》の撮影は、真冬の海辺の真夜中の話とあって、波の満ち干に合せて毎夜の撮影が続く。プロデューサーの恭子さんが自ら植木さんの現場への送り迎えを担当して、夕方にはホテルから海辺への現場送り。そして撮影終了後の早朝、再び現場からホテルへ。その車中、植木さんは恭子さんを相手に「夕べのカントクさんの駄洒落はで御座りますなあ」、とぼくが夜通し、撮影の合間に口にした駄洒落の数数を、逐一懇切丁寧に説明なさる。「これはまことにおかしゅう御座りました」。「こちらはいやはや、わたしなどには理解が難しゅう御座ります」、などと。そして「愉しい撮影で御座りましたぞ。はっはっはっ」、でお終い。これが二ヶ月欠かさず続いたそうである。
 この時は、植木さんは古い気質のやくざの親分さんの役。毅然と美しい津島恵子さんを奥様役に、孫の代わりに死んでやるお爺ちゃまを、まことに味わい深く演じて下さった。高橋かおりや、この映画でデビューした宝生舞を始め、いわゆる大林組の俳優さんが大挙出演する群衆劇。夜中の極寒の現場でスタッフが準備する。準備が完了して俳優さんを呼びに行くと、丘の上の待機所との往復に二十分間、スタッフは寒さの中で待たねばならぬ。所が準備完了近く、助監督さんが「さ、そろそろ俳優さんを呼んで」、と指示を出すと、すかさず、「はい、もうボチボチだろうと勝手に下りて来て、待機して御座りました」、と植木さんがにこにこ。最年長の植木さんがそうだから、他の俳優さんもヴェテランの女優さんも、早早とメイク直しを終らせて現場待機。スムーズに撮影が行われたのでありました。
 劇中、植木さんと坊屋三郎さんとの共演シーンなど、“昭和芸能史”の一部でありましたなあ。植木さんはこの映画で、「スポニチ主演男優賞」を受賞され、照れ臭そうに喜んで下さったのだった。

 ああもう一度、植木さんと一緒に“映画”を作りたかったなあ。植木さん、お疲れ様、そして、有難うございました。植木さんが残された“映画的遺産”を、ぼくらはこれからも、大切に活かします。

お隣の大山さんの奥様が、庭で摘んだお花を下さった。春です!「さびしんぼう人形」も一緒に。

《転校生》《22才の別れ》公開を前に、ポスターやパンフレット製作中。色色工夫が愉しい。

恭子さんにデスクのはずき嬢。中央はメイクの和栗さんです。事務所にて。

成城のお料理上手の田中さんが美味しい根菜16種の炊き合せを差し入れして下さった。嬉しいね!

豊後牛をたっぷりの讃岐うどん。恭子さんの手作りです。

沖縄の塩らっきょうが旬です。肉うどんと合せて戴きます。

俳優事務所の横田さん、《転校生ムービーエッセイ》の製作に参加の中村監督と共に「恭子さん戴きまーす!」。

NHK「ゆうどきネットワーク」に出演。控え室で。はずき嬢写す。

アナウンサーの山本哲也さん、江崎史恵さんから、番組収録の後日、お手紙を戴いた。こういう温いお気持が何より嬉しいです。

2007年04月26日

にこにこ写真日記

わが家の窓からの眺め。本の頁の向うに春が見える。

 ぼくとしては本当に久しぶりに(指折り数えてみたらまことに四年ぶりに、でした)家に居て、窓から桜の花を見たり、野川の辺を独りマラソンしたり、一日中家に居て本を三冊読んだり(ぼくは句読点までゆっくり読むので時間が掛るのです)して過ごす日が一週間くらい続いたかなあ。四年前、映画《理由》の脚本書きを始めてから、歯医者さんに行く一時間が取れなかった。映画を思いついてから、仕上げて観客の皆さんの元にお届けするまでには、実際山のようにすることがあるのです。今もその山を一つずつ崩しながら、明日からは、また旅の日が続く。NHK広島で市民ヴィデオの番組収録。尾道で幾野伝記者と会って倉敷の大学へ。授業を二日して帰京。久びさに学生諸君と会えるのが楽しみで、こんな文を書いております。

新幹線で広島へ。窓辺のはずき嬢の向うを景色が流れる。

 今度の旅にも「オリンパスSP-550UZ」を持って出掛ける。最新鋭のデジタルカメラですぞ! といって、ぼくはこんな立派なカメラを持つのは初めてである。実は今回のブログを始めるに当って、このカメラを常に身近に置いて写真日記を始めよう、と決意した。故にブログもカメラも初めてなのですね。ブログが馴染まぬように、きっと皆さんにも不出来な写真を毎回お見せしていることだろう、と心が痛みます。ごめんなさい。でも、新しいことに挑戦するのは楽しい。一所懸命続けますので、宜しくね!

NHK広島での公開録画。市民の方のヴィデオ作品は、平常の頁のジャーナリズムです。世の中が平穏になります。

 それにしても、映画作家がカメラに疎いなんて! と驚かれるかも知れない。実際映画製作の現場では、現在はカメラは必需品。あらゆる所で、パチ、パチ、パチリ。若いスタッフはいつもカメラを離さず、小型のデジタルカメラを鉛筆代わりに、身の周りの事どもを記録しながら仕事を進めている。だから「現在は」、とぼくは書いたのだが、では以前は? そうなんですね。ぼくが若い頃には、そんな事はなかったなあ。例えばテレヴィや雑誌等の取材で、よくぼくの幼少時から青少年時代の写真を乞われるが、これが殆ど無いのであります。赤ん坊から幼少時代のものは、年に一度のお正月に、家族全員が(当時は大家族でしかたら、お祖父ちゃまからお祖母ちゃま、叔父さん叔母さん従兄弟たち、三十人ばかりが一斉に揃って)家の門の前で威儀を正してパチリ。横に日の丸の旗がはためいていてね。学校に通うようになっても、校門の前でクラス全員で気をつけえ、パチリ。もちろん町の写真屋さんが大きなカメラを選んでいらして「はい、鳩が出ますよ!」(近頃でも、こんな事を言うのかなあ?)。
 ぼくの場合は、医師である父が軍医として戦場に赴いていて、その父に送る慰問袋に入れるために、母と二人の写真を折折に撮った。もちろんいつもの写真屋さんだけど。つまり家庭内に素人が扱うことの出来るカメラなど、まだ普通には存在しなかった時代の話である。
 戦後、戦場から帰って来た父は、家庭用の愛用の小型カメラを大切に持ち帰った。ぼくは中・高生時代にそのカメラを借りて、学友たちと数枚の写真を自分で撮った。悲しいほどの緊張感と、湧き出るほどの幸福感に包まれる瞬間でしたね。
 ぼくに《さびしんぼう》という多くの人に愛された初恋を主題にした映画があるが、「さびしんぼう」とは母が少女時代に撮影した昔の写真の中から飛び出して来た少女。それが大掃除の時にひっくり返した母のアルバムから抜け出して、現代の息子である少年と出会う。少女時代の写真なぞ一枚しか無い時代だから成り立った物語である。《転校生》はこの度二十五年振りに再映画化したが、この写真が一杯ある時代に、もう《さびしんぼう》は作り得ないだろうな、と思う。

出山知樹、井上あさひアナウンサーと。先週東京NHKでの「ゆうどきネットワーク」の江崎史恵アナウンサーはここの出身でした。ご縁!

 つまりぼくは、カメラも写真もまことに乏しかった時代を生きて来た人間であり、だから普段カメラを持って写真をパチパチ写すという習慣が、そもそも皆無なのでありました。
 映画のスタッフの中に記録係という人が居て、バラバラに撮影される場面を色色記録して、後で順序通りに繋いで行く。現在では現場をパチリと写しておけば、簡単に繋がる。だが、十年くらい前まではこの記録係の人さえもカメラなどは持っておらず、頭の中の記憶と記録用紙に書き込まれた鉛筆のメモだけが頼りだった。ロケ先の宿で記録係さんと隣室同士になると、夜中中隣の部屋でぼそぼそと人声が、そしてバタバタと動き回る音がする。それは一日中撮影した色色な場面を、独りきりの部屋で、記録係さんがそれぞれの俳優さんになって、自演を繰り返しながら、今日一日のカットを頭に叩き込んでいる音でありました。
 撮影現場を探してロケーションリサーチに行ってもカメラは無し。皆で目を開き、耳を傾けて総てを記憶する。当時の映画は「映像」を情報として記録するのではなく、人間の記憶の物語を「場面」にして行ったのでしたね。
 映画もヴィデオなぞ無いから、全部のカットも台詞も、記憶して繰り返し思い出しては愉しんでおりましたよ。

 そのぼくが今、「オリンパスSP-550UZ」なる最新式のデジタルカメラを常に手に持っている。どこへ行くのも、誰に会うにも。これはまことに生き方そのものが変化して、今ぼくはその変化を大いに愉しんで居ります。つまり、コミュニケーションの変化を、ですね。「やあこんにちは、ではパチリ」。「うん、この弁当美味いですね、ではパチリ」。「じゃさよなら、また会いましょう、ではパチリ」。その度に、皆でにこにこ。そうか、カメラの前では誰もがにこにこするなあ。これは良いなあ。で、写真日記をぼくは今作っているのです。「にこにこ日記」でもよいかしらん。
 という訳で、今回も、この一週間の写真日記。「オリンパスにこにこ日記」であります。

広島まで来てくれた幾野伝記者と尾道へ。昔馴染みのまなぶ君の店で整髪。ああ良い気持!

尾道の旧友たちと。ぼくの映画の美術を15本も担当した太田さん、装飾の笠井さん、伝君と。

尾道駅前のグリーンホテルの朝。尾道水道を渡る渡船と光る海。おお古里よ!

古里の尾道のホテルで旅人となったぼく。

尾道映画でよく知られる喫茶こもん。幾野伝記者とママのよしみさんの後ろの卓で、二十五年前《転校生》が撮影されました。

父の古里松永金江町に立ち寄り、思いがけず父母のお墓参り。子供の頃と同じ景色。同じ海からの風。変らぬものは変らない。

鞆の港へ寄る。美しい海。海を訪ねる人びと。鞆の浦を守ることに情熱を傾けている大井幹雄さんと幾野伝さん。

倉敷芸術科学大学で授業。若い人たちと過す時間は誠に充実感一杯。

学生諸君と記念撮影。パチリ!

2007年05月02日

映画と、若い人との、幸福なコミュニケーション。

窓から見える八重桜と、野川の辺を散策する人と犬。

 双葉十三郎さんから頂戴した『外国映画ぼくのベストテン50年』を、愉しみながらゆっくり読ませて戴いている。双葉さんは1910年生まれだから、おやおやもう96才におなりになる。ぼくなどが生まれるずっと前から映画をご覧になって来た方です。うーん!
 その書物の帯の文字がぼくの目を引く。「映画は自分が愉しむもの/好き嫌いは各人の自由であり/特権である」。うーん!
 双葉さんは、いわゆる「映画評論家」、という枠など超えていらっしゃる。評論家ならば映画に対する世間や歴史上の一定の基準を考慮して論考を進めるという配慮もまた必要であろう。双葉さんはそれを「自由」と仰る。つまり世間の規範に囚われず、御自身の責任で映画を語る、という意思表示でもあろう。だから双葉さんが語られる映画の話はこよなく愉しい。映画の魂なるものが読み手に伝わって来るようだ。この帯の一文はそういう映画の見手としての双葉さんの、覚悟のように毅然とした意思を表わすものだが、作り手の側が安易にこの言葉を真似すると、とんでもないことになる。
 作り手にとっては、それ故に「誰もが理解し、好きになって貰えるよう、努力する義務」があるのであります。所が近頃では、「どうせ好き嫌いは見る者の自由なんだから、好きな人だけ見て下さい。嫌いな人は見なくってもいいよ」、という態度で映画が作られるケースが多いようだ。それは、つまりは映画が衰退していくことに繋がるから恐い。
 「二・二・六の法則」、というものがあるのだそうで、「どんな失敗作をこしらえても愛してくれるファンが必ず二割はいる。その逆に、どんなに成功作を作ってもお前の映画は嫌いだという人が二割はいる」、という条理があって、こればかりはこの世の中どうにもならぬ。故に問題は残りの六割の人が好きになってくれるか嫌いになるかが、作品が成功するか否かの分かれ道。努力を重ねれば、六割の人が味方になってくれる。故に作り手は「総ての人に愛されるよう努めなくては」、という教えである。
 それを厭えば、結局は二割の人だけを相手に映画を作り続ける事になり、誉められたからと言って喜んでばかりはいられないって事であります。

 サミー・デイヴィスJrというエンタテインメントの芸術家がいて、彼の言葉にもこういうものがある。「ぼくは総ての人に愛されたいと願うが、そんな事はある筈がない。世界の半分の人に愛されて、残りの半分の人からは“あいつの事は好きではないが、でも一所懸命努力している事だけは良く分かるよ”と言われれば、こんなに素敵なことはないよ」。
 名脚本家の笠原和夫さんが、ある時パーティで、その年度のベストワン作品を作ったプロデューサー氏に「でもこの映画、一部の人は理解出来ないかも知れませんね」、と語った所、「ああ、それはいいんです。分かる人だけ分かってくれれば」、とプロデューサー氏が応えた。笠原さんは、「ああこんな時代になったのでは、自分はもう引退しよう」、と悲しく決意されたと言う。総ての人に面白く為になる映画をこそ、と笠原さんたち日本映画の伝統的な映画人は、そう努力されて来たのだから。
 先日、『日本映画監督協会』が主催する『監督協会新人賞』の銓衡委員を努め、昨年度に製作された若い人の映画を43本観せて戴いたが、その時にもやはり現在の映画のありように、先に述べたような事を感じた。これはきっと映画だけの問題ではなく、この時代というものの、コミュニケーションのありようでもあるんだろうなあ。

早稲田大学に送ってくれた恭子さん。

 そんな事を考えながら、新学期。大学通いが忙しくなる季節であります。先日も倉敷にある『倉敷芸術科学大学』に行って来た。新入生がどっと入学して来て賑やかで元気。教室から溢れ出んばかりの若者たちと二日間、彼らが作った映像作品を見ながら熱く語り合う。放課後は近所の居酒屋で、ビールが飲めるようになった上級生たちと歓談。別れ際にはちょっと涙が零れそうになるのですね。彼らの後ろには未来があるんだなあ。

大学前で、安藤鉱平教授、元村直樹さんと。

 昨日は年に一度の『早稲田大学大隈講堂』での講義。今回は二十五年前の《転校生》を午前中に見てくれていて、新しい《転校生》の話やら何やらの約二時間。定員四百人の所を七百人の熱気。ぼくは対話人間なので独り語りより、目の前の学生さんたちと語り合いたいので、こちらも一所懸命未来へ向う若さに挑戦した。考え方はもちろん異なるのだが、彼らも向って来てくれる。ぼくも色色意見されたが、時間が経った後では「こんなに心が震えた授業は初めてです」、などと言い寄ってくれる人もいる。そっと手紙も貰ったし、質問した若い人同士がもっと話し合おうと連れ立って帰っていく。「こんなジジイが未だ映画作っていていいのか?」、と一寸甘えて満場の皆に訊いてみたら、「撮って下さーい」、と大きな拍手。爺ちゃんを元気付けてくれる優しい子たちであります。ようし、まだまだやるぞお! ここでのコミュニケーションは、まことに至福だ。つまりはぼくが勇気付けられるのですね。

早稲田大学のマスコットさんと、パチリ。

 さて今日は、専任教授を務めている『尚美学園大学院』へ出向く。八重桜がたわわな我が家の前で、恭子さんのにっこり笑顔に励まされて、若い人の只中へ。
 では、はい、にっこりパチリ!



安藤教授とは若い時代からの映画仲間です。

七百人の学生さんと授業。

《転校生》に就いての話なども。

若い人の熱気が嬉しい。

日が変り、尚美学園に向う前のひととき。八重桜の下の恭子さんと。

そして、ぼく。

事務所を訪ねてくれた左時枝さんと、安井プロデューサー。

左さんの自作の画の前で。

おお!美しいな!

2007年05月10日

九州の映画旅が始まるぞ!

 暗い夜道を、車で走っている。
 ──田舎は、夜が夜だからいいのね。
 ぽつりと口にしたのは、恭子さん。
 なるほど、なるほど、と納得する。
 またまた、大分です。
 《22才の別れ》、映画上映の旅の中、です!

青山ビジュアルベイスタジオにて徹夜で編集作業

編集仕上げスタッフと恭子さん。ぼくの事務所の初代スタッフ中村明君と、25年後の現在のスタッフ永嶋はずき嬢!

 東京を離れる前日は、当日を迎えても未だ青山のスタジオに籠もっていた。
 《転校生》公開が近づいて、携帯電話で発信する『ムービーエッセイ』なる5分ほどの映像作品を三作作る。その二作目の編集作業であります。
 5分とは言え、もうぼくの事務所の編集室で始めてから、五日目になっている。《転校生》は二十五年目の再映画化だが、その二十五年前にぼくの事務所のスタッフで助監督を務めた中村明君が、今度は独立した監督として、撮影演出もしてくれている。ああ、二十五年!であります。

野川の空の飛行機雲。

八重桜の木漏れ日。

 朝、野川の空に、飛行機雲が!
 八重桜の木洩れ日が、道に映っている。
 こんなものに、心が動く。
 幸福感が湧き上がって来る。
 《22才の別れ》、九州公開の上映の旅にこれから出るのだ。
 ちょうど一年前の朝も、こうやって撮影の旅に出た。一年経って、今二本の新しい映画が、ぼくの掌の中にある!
 時は経ち、人は生きて何かを為し、何物かを残す、──ぼくらは、そうやって生きて来た。それを喜びと感じながら。……

 恭子さんと羽田へ。正やん知ちゃんと待合わせ、九州へ飛ぶ。
 福岡到着。さっそく正やん、おっと伊勢正三さんとラジオ局へ。《22才の別れ》は正三さんの名曲から生まれた、同名の映画なんですよね。
 正三さんなどと呼んでいると妙な気分なので、やっぱり正やん。
 正やんも五十五才。ぼく六十九才。兄弟のように仲良しです。
 正やん夫人、和ちゃんの旧友たちのパーティーに雪崩込む。すると福岡市長のお顔があったりするのですね。
 ご縁とは面白いもので、《22才の別れ》の福岡ロケで、筧利夫君演じる主人公が努める会社のオフィスに、福岡市の市長室をお借りした。前の市長さんの時代だが、その時映画用に飾りつけたままの市長室がお気に召して、現市長の吉田宏さんはそのままお使いになっている。
 そのヒロシさんが知ちゃんの少女時代からの顔馴染みだって! 面白いね。
 お若くて、活動的な市長さんでいらっしゃる。
 続いて知ちゃんのママの馴染みのフランス料理屋さんへ。
 知ちゃんのお兄さん夫妻にそのお嬢ちゃん、それに《22才の別れ》で恭子さんのアシスタントプロデューサーを務めた山ちゃんと。

 翌朝はホテルから、福岡市内の劇場へ。
 新しく買ってくれたピンクのセーターを恭子さんに着せて貰う。
 ──年取ったらスマートに生きなきゃ、ね。
 なるほど、なるほど、とここでも納得。
 恭子さんの一言は身に沁みて有難い。
 なにしろ、もう五十年、一緒に生きて来たんですからね。
 という訳で、正やん知ちゃん夫妻に山ちゃんと揃って、九州の旅が始まりました。
 今日は東京から、仲間が大勢駆け付ける。
 それから皆で、小倉に寄って大分へ。
 《22才の別れ》上映の旅と続いていくのです。
 ──お楽しみは、次回へ!

正やんと知ちゃん。「いやあ、しばらく!」

正やんとラジオ局にて。

正やん55才、ぼく69才。仲良し兄弟!

ホテルのロビーで。《22才の別れ》の広告が出ている新聞を見る恭子さん、正やん、知ちゃん。

ホテルでテレヴィ収録。分刻みのスケジュール。

ホテルの窓から見える福岡の夕陽。

知ちゃんの旧友たちと。

フランス料理屋さんで。知ちゃんのお兄様は歯科医の権威。近頃の医学用語はアメリカ語。ぼくの子供の頃はドイツ語。そんな事から比較文化論に話は進む。

博多港の朝。爽やか!旅が始まるぞ!

2007年05月17日

《22才の別れ》九州・旅日記

 さあ、いよいよ《22才の別れ》九州上映・舞台挨拶の旅の始まり始まり!!!

 映画は観て戴くためにこそ作られる。お客様と出会える日日は、映画のいわば“誕生日”。嬉しい旅なのであります。

 という訳で、今回は正に「オリンパス・写真旅日記」。分刻み・秒刻み、全長2000キロ10日間の報告です。

4月28日

福岡市内のホテルを出てユナイテッド・シネマキャナルシティ13へ駆け付けると、ロビーに岩出直人君の姿が。ぼくが出演する会場には、いつも一番最初に来ている人。今回は東京からやって来て、行く先先で出会いました。実は《22才の別れ》撮影現場でもスタッフの一人として働いていた。恭子さんと、折りしも熊本からお母さんと駆けつけた出演者の一人、小崎泰生君と4人で記念撮影を、パチリ。

東京から到着したばかりの出演者の鈴木聖奈、中村美鈴くんを交え、正やんも参加して舞台挨拶開始! パチリ!

と思ったら奥様と映画をご覧になっていた福岡市長・吉田宏さんも飛び入りでご挨拶。パチリ!

続いて小倉の映画館へ移動。《22才の別れ》のポスターの隣に《転校生》のポスターも。この夏、2作が全国同時上映、でパチリ。

合間にラジオ局へ飛び、

デパートでサイン会、パチリパチリ!

福岡スタッフとはここでお別れ食事会。深夜大分へ向う。この車移動も楽しいのです。

4月29日

大分シネフレックス東宝11。奥様と休日の映画見物を楽しんでいらした広瀬勝貞知事、釘宮磐市長も舞台へ。。

製作会社ダイアックスの頼住宏社長に恭子プロデューサーも加わって、舞台挨拶は各会場で約20分、2回ずつ、です

お昼には「そうぞうの森」での屋外ファン交流会で、パチリ!

午後はT-ジョイパークプレイス大分でも2回。正やんのご両親が客席にいらして、正やんは舞台上から「ありがとうございました」。親孝行は良いものです。

正やんの古里、津久見の夕日。

見つめる中に九州上映の総てを実行させた山ちゃん(《なごり雪》からの大分プロデューサーです)、メイクの千江子さんの顔も。ほっと一息!

津久見の会場にはこの日だけで千人を越える人たちが!

夜は地元の人たちによる歓迎会。映画の撮影に協力して下さった人たちの顔も一杯。

正やんと旧友との交歓会が楽しい。この日は一日8回の舞台挨拶でした。

4月30日

日田・由布市を車で移動しながら2回ずつ。6年前の《なごり雪》の時もそうだったから各地で懐かしいお顔に出会う。

舞台では山ちゃんが司会をしてみたり、頼住社長もスピーチがどんどん上達したりで拍手拍手。岩出君もどこをどう行動しているのか、ここにも居て恭子さんと並んでパチリ!

由布院 庄屋の館で一泊。

良い湯で体を癒しつつ、劇場発売用チケットのためのイラスト描きで休暇は無し。

5月1日

豊後高田。今日もお客様は本当によく来て下さっている。ゴールデンウィークで皆様もお客を迎えて多忙であるのに。

聖奈と美玲も堂堂と自分の言葉で話せるようになってきた。若い人がこうして育つのが嬉しい。映画も旅も学校です。

ふと気付くと会場にダイアックス社 鈴木政徳さんと角川映画 鍋島壽夫プロデューサーの顔が見える!

その夜は皆で大分のフグを戴く。優雅なひとときは、中日のご褒美。

あ、俳優プロ社長の横田さんも訪ねて来てくれた!

思いっきり飲んで食べる、月天40年ものもぐいぐい! 大分のフグも酒も友情も美味しい!

5月2日

臼杵市内《22才の別れ》の大看板!
この同じ場所に去年までは《なごり雪》の看板がありました。

臼杵映画《なごり雪》の町。後藤國利市長も舞台に。

終ってお昼、食事を皆で。

ここで正やん、知ちゃんとお別れ。伊勢正三、知子夫人は東京・横浜のコンサートに向う。元気でね! 楽しかったよ!

午後は佐伯市で。
西島泰義市長もご一緒に。何処でも市長さん参加で楽しい。大分は官民がまことに一体となっている風土です。撮影中でもそれが嬉しい。

会場の皆さんも本当に映画を楽しんで下さっている。

5月3日

九重・玖珠の町へ。
会場のモギリは2000年ぼくと恭子さんが「大分植樹祭」のプロデュース、演出を務めてからの友、芝生係の山本さんたちが、ゴールデンウィークの間ずっとやって下さっている。大分だから出来る上映の旅です。

山口県の柳井から中岡先生グループが車で。本職はお医者様だが《なごり雪》では柳井での上映会を大成功させた人。今度の《22才の別れ》も、と大張り切り。フォーク世代の情熱と行動力は凄いですねえ!

玖珠のステージでは地元の女子高生の人たちから花束を戴く。

舞台挨拶の後は上映会を成功させて下さった皆さんと語り合う。ここは「童話の里」であるのです。夢を信じよう!

5月4日

国東でも満席のお客様に迎えられる。

ロビーでもパンフレットにサイン。

ステージでは地元の方がヴァイオリンで《22才の別れ》を!

地元の方たちの情熱で上映会は続いていくのです。

宇佐へ向う。寸暇を割いて宇佐神宮へ。

久びさに恭子さんとツーショット!

会場前の行列。こちらも場内にあふれる熱気!

西本願寺で飛び入りのミニ講和。

それから名物ネギ料理を市民の皆さんと戴く。ここは焼酎の里です。いいちこがうまい、うまい。人情が厚い、熱い!

市民の方と「さよなら」「またね」

5月5日

子供の日。会場は大人と子供たちで一杯。豊後大野。この大野町が8年前の植樹祭会場だった。芦刈幸雄市長さんもご一緒に。

会場はここでも大入り満員!

竹田市でも牧剛尓市長さんと。聖奈・美玲は立派なレディになりました。

竹田の姫達磨をお土産に頂戴して。

臼杵へ移動して打ち上げ、お疲れ会! 後藤國利市長ご夫妻、市役所の方たちもご一緒に。

恭子さんに甘える聖奈と美玲。明日は皆、東京へ帰るのです。

5月6日

全員帰京。
恭子さんと二人だけ残り、大分在住の山ちゃんと三人で臼杵の会場で御禮のご挨拶。上映はまだまだ続いている。

大分、福岡の映画館では7月末までが目標で、古里巡りの上映会もあちらこちらと。今日は津久見の学校での上映会もあったのです。

臼杵の《なごり雪》記念で恭子さんが作ったティールームでスタッフにお疲れ様。大分では誰もが皆スタッフなのです。持ち寄りのお料理も並んで!

5月7日

大分のホテルの窓から見馴れた大分の風景にしばらくお別れ。

山ちゃんの車で陸路尾道へ。ひとときの心の静養!

 10日間、計39回舞台挨拶の旅。6年前の《なごり雪》では、この勢いが続いて全国フィルムコンサートで正やんと上映ミニライブの旅、大成功を記録しました。今回も大分、福岡ではまだまだ映画館で。上映の旅も続けます。《なごり雪》の上映もまだ続いているのですもの。

 旅はまだまだ終りません。これから母の17回忌の法要を済ませ、そして明日は信州長野からの《転校生》取材ヴィデオ班を尾道で迎えます。

2007年05月24日

尾道にて。

大分から尾道までドライブした山ちゃんと恭子さんを挟んで、伝ちゃんとタミちゃんと。

弟の明彦一家と、皆で庭で。後ろには明るい瀬戸内の海が。

 九州《22才の別れ》上映の旅の帰り、尾道に立ち寄って、お馴染みの新聞記者幾野伝くんとタミちゃんに迎えられる。タミちゃんとは吉田多美重さん。尾道山の手の旧家のお嬢さんで、ぼくが昔《ふたり》という映画を尾道で撮影した時、主人公石田ひかりくんの演じる北尾美加の姉千津子役の中島朋子くんが事故で死ぬ。その現場に最適と山の手の坂道のお宅を見付けたが、いくら何でも人が死ぬ場所に玄関先をお借りするお願いは失禮だと悩んでいたら、そこは智慧者の制作担当の叔父さんが、「この家の娘さんをスタッフにしましょう。スタッフの家なら問題はありませんから」、と無理やり制作部の一員に雇って了った。「五時まで」の約束に「はい」と引き受けた好奇心豊かな多美重お嬢様も、それが夕方五時ではなく徹夜明けの五時までと気付いた時には、もうすっかり活動屋の心意気! 山のくねくねした坂道、細道の運転はお手のもの、と以来大林組尾道担当の重要スタッフとなり、「尾道大林映画研究会」を立ち上げてその会長さんにも就任、その後も我が恭子プロデューサーの良き友として、尾道大林組を支えて下さっている。因みにタミちゃんの家の前の撮影現場は、この映画を愛して下さった全国のファンによる『千津子忌』がその後も催され続けるなど名所となり、タミちゃんが早朝牛乳を取りにパジャマ姿で玄関の扉を勢いよく明けると、待ち構えていたファンの旅人のカメラがカシャリ! と鳴るという始末だそうです。ファンとは有難いものでありますな。

 大分からドライブしてくれた山ちゃんのたってのオーダーで、その夜は尾道お好み焼きで腹腹! この店の特製ソースはぼくが子供の頃からの味。三浦友和くんも大好物で、良く尾道土産に持ち帰っていましたね。坊やたちも立派に成人されて、百恵ママもすっかり落ち着かれたことだろう。友和くんもますますいい味の役者! 俳優夫妻とのお付き合いも40年ともなると沁み沁みよい味になりますねえ。


母の法要。弟一家の後ろに伝ちゃんタミちゃん山ちゃんトリオ。

写真の中の父と母。仲良しの夫婦でしたね。美男美女でもありました。

恭子さんに甘える、姪の万里江ちゃん。レディになったりべビィになったり。

大分に電話する山ちゃん。《22才の別れ》はまだまだ上映中です。

 翌日は隣町の弟夫妻の家で母の17回忌。お坊様もすっかりお若い息子さんの代になられた。九州へ帰る途時の山ちゃんたちに、伝ちゃん、タミちゃん、と皆で出向く。母は生前タミちゃんのお花の先生でもありました。母がこの世を去ったのが《ふたり》公開初日のこと。あれから17年が、もう! 大阪キャンペーンの夜、弟からの電話で母の危篤を知り、翌朝恭子さんは大阪から尾道へ。ぼくは初日舞台挨拶のため東京へ向う。大入りで舞台挨拶が急遽2回に。その2回目の挨拶を終えて舞台から降りた所で母の死の報を聞いた。すぐさま新幹線に飛び乗る。生まれて初めて、母の居ない尾道へ。不思議だった。心穏やかで幸福感さえあった。「母はこのぼくの中にいる。もう別れることも無い」。その日も、若いお坊さんと昔噺など交わしていると、ぼくもいつの間にやら爺さんだ。なのに心の中の母は若い。昔がそのまま、今もある。その中を、弟の娘がつつましく育っている。ぼくの家族だ。家族の日日は繋がっているのだ。

山ちゃんを送り出す万里江とママと真ん中はタミちゃん。

 山ちゃんたちを送り、夜は弟一家と食事会。ぼくが家を出て了ったので、医家を継いだ弟夫妻が、こうした家のことは総てやってくれている。有難いことである。今度ゆっくり、弟たちと大分の陽の旅に出ようよ、などと語って愉しい一夜を過ごす。

 翌日は長野から信越放送のテレヴィ取材班が尾道へ。《転校生》の一時間番組の収録のためである。ぼくは劇中一夫と一美が入れ替る御袖天満宮に取材班を案内。大きな一枚岩から切り出された岩で作られた五十六段の石段の、一番上の段の石にだけ繋ぎ目がある。これは「人間の作り出すものに完璧なものは無い」、という教えを表わすものだそうで、ぼくが映画を作る時、いつも心に浮かばせる言葉。つまり、「畏れよ、驕るなかれ」である。尾道は石の町。古来全国に石工が招かれ赴き、こういう匠の教えをも表わしていったのでありましょう。
 続いて、実家の二階の部屋。ぼくが少年時代を過した場所にあるピアノを弾きながらの取材。この部屋の押入れに映写機と共に潜り、襖に小さな穴をあけてそこから自作の映画を壁に映して、近所の人を集めては上映会。そのサウンドはこのピアノを叩いて作った自作の音楽。ぼくの現在に至る原点がここにはある。
 そして海岸通りにある木造旧家前で。25年前の《転校生》で一美の家だった所。今回の《転校生 さよならあなた》でも唯一尾道ロケを行った場所。あの頃の尾道は、もう殆ど消えて了った。でも映画の記憶の中には、今も尚残っている。新しい《転校生》パンフレットのために依頼した原稿が、色色ホテルに送られて来る。パンフの編集を担当してくれている娘の千茱萸さんからだ。昔の《転校生》では彼女は劇中の8ミリ映像も写す8ミリ少女だった。主役でデビューした小林聡美くんと同年配。すっかり互いに大人になったその聡美くんがチャーミングなコメントを寄せてくれている。山田太一さんからの長文の原稿もある。嬉しい贈り物に、ぼくも4,000字の一文を、海の見えるホテルの部屋で認める。《ふたり》でデビューした石田ひかりくんも17年経った今、新しい《転校生》に戻って来てくれた。母となり、自ら童話作家ともなり、今回はチャーミングな先生役としてだ。《マヌケ先生》のぼくの役で尾道でデビューした厚木拓郎くんも出ているぞ! 《あの、夏の日》の勝野雅奈恵くんも! 《転校生》からは宍戸錠さんに入江若葉さん、昔の吉野アケミ役の林優枝くんも。ぼくの《理由》でデビューした寺島咲くんは、今回その吉野アケミ役でただ一人、尾道ロケに参加した! 他にも、尾道映画でお馴染みの人もいっぱい! 映画の仲間に囲まれて、映画の旅はこうしてまだまだ続くのであります。

瀬戸の魚料理を前に弟一家。明彦、万里江に挟まれて直子さん。

明彦の友人、お肉屋さんの牛ちゃんを真ん中に皆で。

万里江嬢の親友さんが登場。二人はさっさとカラオケ店へ。若い人はいいね。

長野から《転校生》テレヴィ取材班が。軽く打ち合せして。

伝ちゃんタミちゃん二人で、ブログの写真を東京のはずき嬢に転送。

帰りの新幹線車窓から見える富士山。初めて見たのは十八才の時。五十年の昔。

帰京して直ぐ、教授を務めている尚美学園大学院へ。若い人の熱さが嬉しい。

事務所ではチーフの南柱根君が待機。ぼくが旅してる間に280頁の脚本を試みに。

重松清さんから原作小説をお与りしている《その日のまえに》。いよいよ次の映画の始動だ。

2007年06月14日

《転校生》の25年!

東京事務所での取材・取材の日日の中、《22才の別れ》の鈴木聖奈がやって来る。会う度にレディに育つから若い人は頼もしい。

製作会社ダイアックス社長の頼住さんと並んで聖奈の食欲は益益頼もしい。食欲と消化能力は表現に携わる者の基本です。

大分から山本さん来社。2001年の大分植樹祭での芝生係のおじさま。ゴールデンウィークは《22才の別れ》上映の旅の間中、モギリのおじさま!

取材スタッフに村田雄浩君事務所社長の横田さんも交じってパチリ!

ゴッホの芝居をやろうと、打合せというより雑談会で、安井プロデューサーと福島プロデューサーが来社。安井さんは《22才の別れ》のCOプロデューサーて

ラジオの取材も事務所で。NACK5の近藤淳子アナウンサーらが来来で愉しく賑やか!

長野の町で。善光寺山門前で恭子さんと久びさの2ショット。

東京からはずき嬢の運転で千茱萸さんと森ちゃんが駆けつける。パンフの入稿が終わったそうで、お疲れ様。《転校生》パンフは面白いよ!

立川志らくさんの新しい芝居《ベニスの商人》を見る。今回は洋モノSFミステリー。これまでの情の喜劇から知の喜劇へワープ。相変わらず面白い。志らくはどこまで飛び昇るのか!
《ふたり》でデビューの柴山智加、《なごり雪》でデビューさせた須藤温子とロビーで会う。大林組女優さんは志らく師匠のご贔屓だ。偶然だが主演の北原佐和子さんは昔の《転校生》のイメージソングを唄って歌手デビューしたんだった!

 6月8日、《転校生 さよならあなた》が善光寺さんの境内で御披露目上映されました。  山門に巨大なスクリーンを設置して、である。  善光寺1400年の歴史で、境内で映画を上映するなど初めての事。今後もこんな事は有り得ないだろう、とのお話。まことに勿体無い上映会であります。 「長野で作られるこの映画、完成したら是非善光寺さんの御本尊にお見せしたい。境内で御本尊に向けての上映は出来ないだろうか?」、と善光寺さんが仰っているとは、撮影中からぼくらに伝わってはいた。けれども「まさか!」、である。そんな事をしたら罰が当るぞ!
 それが、現実になった。折角だからと当日、御本尊と共に300人の市民の方をお招きして一緒に鑑賞して戴こうと声を掛けたら、応募が2000通あったそうだ。で、映写スペースぎりぎりの1000人の方に入場して戴くことに。これもまたまことに有難い事であります。

 思えば25年前昔の《転校生》の時は撮入直前に製作会社が「こんな映画は我が社の社風に合わぬ」、と降板し、スタッフ全員が一台のバスに機材もろとも乗り込み、尾道へ向った。男の子と女の子のココロとカラダが入れ替わるなど、そんなお行儀の悪い映画などとんでもない、というのが降板した製作会社の弁。
 普通ならこれで製作中止であるが、ぼくのようなインディーズの個人映画には、中止とは映画のみならず人生を止めろというようなもの。で、25人の仲間と共に自主製作という形で尾道へ乗り込んだのだった。
 尾道はぼくの古里で、それ故に撮影は出来たのだが、例えば公立の中学校などの撮影は拒否。ぼくの恩師の先生方が「ワシが向こうを向いている間にこそっと撮れ」、と撮らして貰う日日。それでも町の人たちの温かい協力も得て30日一杯で撮影を終える事が出来た。
 聞けばこの物語の原作者の山中恒さんも、「こんなハレンチな小説は子供に読ませるな」、と当時の児童文学の先輩たちからは散散小衝かれていらしたそうだ。それを伺って、その昔ぼくが小学生だった頃には、あの手塚治虫さんの漫画もまた悪書追放の目に合い、ぼくらの手から取り上げられた事もあったっけなあ、と思い出したりもしたものだった。
 尾道で完成した映画《転校生》は、「こんな汚い尾道を写されたのでは観光の妨げになる、上映しないでくれ」、とも言われたが、試写を見た尾道の子供たちが全員で応援してくれ、恐る恐る上映に踏み切ったらこれが全国の皆さんに愛されて“ロケ地巡り”の信じられない程の熱いブームを生んでいく。
 東京での公開初日の映画館では上映後拍手の渦が湧き上がった。テレヴィ放映ではゴールデンウィークのゴールデンタイムに4年連続オンエアされ、高視聴率を上げた。今でもヴィデオやDVDは売れ続け、原作本は諸外国で翻訳され出版されている。どうしてこういう事になったのかはぼくにもよく判らないのだが、今回の再映画化に際しては「名作のリメイク」などと呼ばれ、それがぼくを嬉しくも怯えさせたりもする。

 そんな中での、善光寺上映会であります。
 当日は夕刻から雨。激しい雷雨! でもお天気で悩むなど罰当たり。これは神や仏、自然界の意思であり、ぼくらはただ頭を下げ、これを「恵みの雨」、と受け止めるだけ。この今日、雨があるからこそ、ぼくらは緑に包まれてこの地上に生きていけるのだ、とは自然に向って仕事する映画人の心得でもあります。
 まだまだ冷気漂う山の里の雨の夜、傘を差し、寄り添い合った長野の人びとの温もりと共に、この夜《転校生》は、無事善光寺さんの御本尊にお見せする事が出来たのでありました。御本尊は喜んで下さった事でしょうか! 長野の皆さん本当に有難うございました。  一方尾道では、市内の小・中・高校生から大人まで、皆で新旧《転校生》を同時上映して、尾道の現在や未来を見つめ直すシンポジウムを行おうという計画が進んでいる。
 ああ《転校生》! ああ25年! であります。
 公開キャンペーンも始まっている。6月23日より全国上映が開始される。これから更に25年、50年。その頃のこの日本は、どういう国になっていなければならないのでしょうか?

「《転校生》やりましょうよ!」と藪から棒の言いだしっぺの鍋島プロデューサーも、「信州・長野でね」と即座に応えた恭子プロデューサーも感慨深げ!

映写担当の花形柴朗さん。昨夜も雨の中を準備に。「大林さんの名作をきちんと上映しようと若いスタッフが一所懸命にね」、とにこにこ。有難い。

OB’sという大林映画ファンクラブ関西支部の松林君、東海支部の谷君も駆けつけてくれた。彼らはとってかえして3日後の大阪試写に向うのだとか!

善光寺さん控室で善光寺スタッフの皆さんと共に、鍋島プロデューサー、恭子さん。

雨のなか、1000人の長野市民の方が集まられた。我が里、人の暮しがどのように映画に写し出されているのか、とみなさん楽しみに。

蓮佛美沙子くんの男の子型、女の子型の切り抜き人形。出来上がったばかりのパンフレットのおまけです。

自身の切り抜き人形とパンフを手にして喜ぶ美沙子と千茱萸 さん。

善光寺中島寺務総長さんが舞台でご挨拶を!

鷲澤長野市長もご挨拶。おととし《理由》が長野映画祭に招待されたとき映画談義に話が弾んだ思い出も。こんな日が来るとはあのときには、・・・。

美沙子と二人で舞台挨拶。長野のみなさんにお禮を。

その模様をヴィデオで撮影する千茱萸 さん。

雨の中で万全の映写準備!

この模様が『ニュース23』で紹介されるので、ぼくは番組出演のため一足先に東京へ。角川映画の三浦君と。

筑紫哲也さんが体調を崩されてお休みの中、番組の若いスタッフはみなさん元気に。 膳場貴子アナウンサーはピアノがお上手。ぼくは昔、その姿をテレヴィで見て

《転校生》の話をたっぷり。先日は筑紫さんの古里九州の日田で《22才の別れ》を上映したばっかり。早く回復されますように。

信州長野の上映、無事終了の知らせ。雨の中大きな拍手の響きが善光寺境内に湧き上ったと。よかったね!あと片付けもご苦労さまです。

ホテルで一休み。この部屋で《転校生》のシナリオを書いたのが去年の夏の終り。角川映画の長山さんとビールで乾杯!

早朝、関西へ飛ぶ。大阪岸和田で「岸和田障害者共同作業所30周年記念」講演会。いずみ野福祉会のみなさんと。

角川映画古本奈緒さんの迎えで大阪市内へ。《転校生》大阪公開キャンペーン。大阪NHKなど取材が続く。

角川映画大阪支社の古本さん。奈良の生れのがんばり屋さん。

朝日新聞社長谷川記者と日刊スポーツ安井記者、角川・野村さんと映画談義が楽しんでいると東京から横ちゃんが駆けつける。

日曜日!日曜日を日曜日として過したのは何年ぶりだろう?記憶に無いなあ!横ちゃんと恭子さん。

蜷川幸雄さんの舞台『藪原検校』を見る。昔高林陽一君の8ミリ映画に出演されていた頃から変らぬ若さ。互いに「元気で!頑張って!」と握手。

出演中の松田洋治君を見舞ってから恭子さんの束の間の衝動お買物!緑のバッグは素敵だよ!

大阪のコイケちゃんとモモコさんとヨルの夜の食事。楽しかった。昔から続く友情の中でぼくらは生きている。

翌日は朝から浜村淳さんのラジオ出演。《HOUSE/ハウス》からだから30年のおつき合い!

月曜日、秒刻みの取材開始。思えば映画会社やマスコミの仕事も日曜はお休みという時代になったんですねえ。現場は違うけど。

鍋島プロデューサーも駆けつけて、取材、取材、取材!

美沙子は確り自分の言葉を持っている賢い娘だ。このままアイドルになどならず、自分らしく育って欲しい。それがよい女優になる唯一の条件です。

大阪・ワーナーマイカルシネマズ茨木で舞台挨拶。昔の《転校生》を愛して下さった方方で一杯!

このお父さん、お母さんたちがお子さんを連れてきて下されば、《転校生》はまた若い人の時代にも繋っていくのだろう。

支配人の作田さんが《転校生》の大ファン。この劇場での試写が実現したのだそうです。映画の力は素晴しい。その映画と共に生きられて、ぼくは幸せだ。

角川映画のみなさんお疲れ様!次は8月公開の《22才の別れ》でね。美沙子は名古屋へ、ぼくと恭子さんは東京へ!

2007年06月28日

《転校生》をお届けいたします。

8月中に出版したい「《転校生》本」の編集打ち合わせ。柳谷に編集員とアシスタントの秋田さん。

東京学生映画祭にゲスト出演の打ち合わせ。委員の皆さんと。

GYAO昭和TVチャンネルイベントの打ち合わせ。

長野から取材でいらっしゃったカントリープレイス原田さんと角川宣伝部の新人日野君。

《転校生》《22才の別れ》キャメラマン加藤雄大さんが来社。

「映画秘宝」の《転校生》特集記事で三留まゆみさんと対談した記事を手に千茱萸 さん。

オリンパスブログ担当の皆さんと初顔合わせの夕べ。

いろいろと写真についての話が弾む。

 新聞のテレヴィ欄をぼんやり見ていたら、お昼の時間に小さく《群衆》と載っていた。ああ“ジョン・ドー”だ! と思い出した。“ジョン・ドー”はこの映画の主人公の名。社会に向って抗議するため、市庁舎の塔から投身自殺しようという失業者。だが実在の人物ではなく新聞社を首になった女性記者が腹立ちまぎれに新聞社に投書した偽名。これを使って商売を考えた新聞社は、やはり失業した野球選手を“ジョン・ドー”に仕立てて売り出す。ラジオの人気者になったり選挙運動に巻き込まれたり、この“ジョン・ドー”を演じたのが若き日のゲーリー・クーパー。クーパーといえば西部劇の正義のガンマン。いつも颯爽と悪をこらしめる、ぼくらの人気者。この映画もストーリーは社会劇風だが、フランク・キャプラ監督によるハリウッド製娯楽映画。ハラハラドキドキしながら社会の仕組みについて考え、システムが生む人間の悪について思いを巡らす。“面白くて為になる”、というのが、映画という娯楽でしたねえ。
 思い出すのはモノクロオムの画面にしっかり刻まれたゲーリー・クーパーの表情。あの頃はまだ黒白画面の映画が多かった。(ブラック・アンド・ホワイトだから“黒白”ですよ。これを“シロクロ映画”と呼ぶのは間違い)。今思うとモノクロオムの映画は彫刻のようだったな。光と影で刻まれる画面の中で、ゲーリー・クーパーの表情は彫像のように心に刻まれて記憶されている。《22才の別れ》では、筧利夫くんの顔をこのように撮影しましたね。そのような映画中人物として、彼に存在して欲しかったから。それに比べてカラー映像は絵画のようですね。モノクロはある“意志”を、カラーは“情感”をより写し出す。筧くんの顔を極彩色に撮影したら主人公の性格も変り、映画は全く違うものになったでしょうね。黒澤明監督の映画はモノクロからカラーになってすっかり別のものになったでしょう。今は、若い人はモノクロオムの映画を見る習慣が無いけれど、ぼくはもう一度この現在に、意図的にモノクロオムで映画を表現する意味があると思いますよ。絵画と彫刻の違いのように映画を刻み込むことも大事ではないかと。表現された情報がマイナス1になれば、人の思いがプラス1になる。絵画だって余白が大事。刻み残されたノミの後に、人の物語が潜んでいる。

 おととい《転校生 さよならあなた》が全国公開されました。ぼくは東京・新宿のガーデンシネマで初日の舞台挨拶を行ったのだけれど、世の中随分変わりましたねえ。
 ついこの間までは初日の第1回目の上映はウチコミといって、映画館の前にずらりと人の行列が出来たものです。雨の中など濡れながら並んで下さっている人たちに、思わず握手して廻ったもの。ところが今ではインターネットでチケットが買える。静かな映画館へ入って行くとチケットは既に完売だとかでお客様は指定席にきちんと座ってらっしゃる。上映後もかつてならパンフレットを求める方たちに百冊も二百冊もサインしたもの。今はそんな賑わいも無いんですね。表の通りを歩いていても映画の看板も無いし、ぼくみたいにふらりと《転校生》を見ようと入って来るようなお客も無いみたい。
 《22才の別れ》は撮影地の大分を中心にゴールデンウィークはフィルムを担いで上映旅行をして、市民の皆さんともお会い出来て嬉しかったけれど、《転校生》では善光寺上映会で長野の人たちと、大阪の試写会でファンの方たちとお会いしたきりで、いきなり東京公開の舞台挨拶。こんなことは初めてで、ぼくはちょっと戸惑っています。
 これまでは公開前の二週間から一ヵ月ばかりはキャンペーンの旅。各地のファンの皆さんにご挨拶して廻ったもの。ラジオやテレヴィ、新聞雑誌の取材で土地の方たちと親しみを深め、それから映画の公開。それが今回はそういうこと無しで全国色いろなところで映画は上映中。何だか勝手に映画だけが押しかけてお邪魔したみたいな、申し訳ない気持で一杯ですね。と同時に自分の映画がどこでどうなっているのやら、まことに不安でもあります。
 今日は川崎のラジオで生を一時間、明日のための収録で一時間、その他を含めて午後一杯、旧友の岡村洋一さんの司会で過して来ました。川崎地区では何と三館で《転校生》の上映が行われています。やっとのことで当地の皆さんとお会い出来た感じで、一所懸命お話して参りました。これで川崎の方たちと一体化出来た感じで、嬉しいことですね。
 今朝、出掛ける前にテレヴィを見ていたら根岸吉太郎監督がちらっと映ってました。根岸さんも新作の舞台挨拶でしたが、出演者の女優さんが離婚するとかしないとかのニュースで、話はそればかり。共演者の名も監督の名前も紹介されなかったんじゃないかしら? これでは一体何のための舞台挨拶の取材なのか? 根岸吉太郎さんといえば現在の日本で最も輝いている監督のお一人。根岸さんにも映画にも何だかとっても失禮な感じなんだけど、そう感じるぼくの方がもう古いんですか? それともこれも映画の宣伝なのかなあ! 世の中変わったんですね。《転校生》の方はそういうテレヴィで話題になるような人は出演しておらず、舞台挨拶も少年少女四人プラスぼくでしたから静かでしたね。かつてなら出演者全員がずらーっと並んだものですがね。あ、三年前の《理由》の頃にはまだそうでした。写真撮影は大勢いらして下さってましたが、昔からの《転校生》を大切にして下さる方たちなんでしょうね。新聞雑誌の記事も、皆さん本当に愛情の籠った良い記事ばかりが沢山出て、嬉しかったです。
 大阪でも東京でも、観客席には25年前の《転校生》世代が多く見られ、この映画への変わらぬ愛情が感じられて幸福でした。有名タレントもアイドルもいない、映画に対する一所懸命とお客様をおもてなししようという心意気だけで作り上げた《転校生》。これはスタッフや出演者の皆さんのお蔭ですけど、映画を見ることの悦びを純粋に感じて戴けるなら嬉しいなと。その思いが次世代の子供たちにも伝わっていって欲しいなと。まだご挨拶に伺えていない各地の方がたも、どうか宜しくお願いいたします。
 ──大人の人たちが一所懸命、眠る間も食事する間も惜しんで、毎日毎日本当に愉しそうに映画作りに励んでいる姿を見て、わたしたちも一所懸命頑張らなくっちゃ、そのことを思うだけで撮影の一ヶ月を乗り切りました。
 お疲れの会で涙が止まらなかったこの映画に出演した15歳の蓮佛美沙子くん。まだ無名に近い新人ですが、《転校生》をご覧になったその後は、この若い女優さんの将来を、どうか温かく見守ってやって下さいね。エンドマークの向うに、ぼくらの未来があるのですから。
 今回は《転校生》を皆さまの前にお披露目したご挨拶とさせて戴きます。全国の皆さまに遠くから失禮致します。ごめんなさいね。

監督協会新人賞の選考委員長を務めていたのでその発表会に。

新人賞受賞の小林聖太郎さんと選考委員の皆さんと。

古い仲間の崔洋一監督協会理事長に映画評論家の松島利行さん、イラストライター三留まゆみさん。。

内藤誠監督と大森一樹監督と。現場では厳しい監督たちも今日はみんなにこやか。

小林聖太郎監督《かぞくのひけつ》のスタッフ、出演者の皆さん。

《転校生さよならあなた》初日の新宿ガーデンシネマ。《転校生?》のポスターと並んで宮?あおい主演映画のポスター。あおいは13才で僕の映画《あの、夏の日 -とんでろ、じいちゃん-》でデビュー。

控室で角川歴彦会長、井上泰一社長、黒井和男相談役と。

第一回上映終了後にお客様へ御挨拶。蓮佛美沙子、森田直幸、寺島咲、厚木拓郎と。皆緊張の面持ち。

「おれがあいつであいつがおれで」原作者の山中恒さんと典子さん、脚本家石森史郎さんに尾道から幾野伝記者。

音楽家の山下康介君と愛息子のタクト君もお祝いに駆けつけてくれました。

美沙子とお母さん。

初日打上げパーティーにて。緊張の舞台挨拶から一転、ほがらかな4人組。

「今日で《転校生》と卒業で淋しい」と、美沙子の目に涙が。いや、今日こそが美沙子の出発日なんですよ。

打上げ後に撮影スタッフとお疲れ会。こういう場で、今後の作品の構想が作られていくのです。

舞台「おんな太閤記-あさひの巻-」を観に新橋演舞場へ。出演の村田雄浩くんとパチリ。

お芝居後、横田房七さんと行きつけの三軒茶屋のお店でご飯。おいしい食事とおいしいお酒で会話が弾む。

来月7月23日に、僕の古里・尾道で25年前の《転校生》と25年後の《転校生さよならあなた》が二本立て上映される。またとない上映会。僕と山中さんも参加します。

かわさきFMのラジオ収録でスタジオへ。岡村洋一君とスタッフの皆さん、そして恭子さん。

2007年07月05日

この一週間。

 ぼくたちの人生は、過ぎ去って行く瞬間の集積だ。
 では、写真を撮るとは、何か?
 その瞬間を、永遠に引き伸ばすことだ。
 だから写真は、愛しいものでありましょう。

6月26日

祖師ヶ谷の「天峰」さんにて。とうもろこしなど、旬の素材を使った揚げたての天麩羅を塩で戴く。締めはみんなで掻揚げ丼。うまい、うまい、うまい。

 一日、原稿書きと取材の仕事で過し、夜久びさに家族で馴染みの天麩羅屋さんへ。ぼくが昔《転校生》を撮影した年齢に、娘の千茱萸さんがもう近付いている、と事務所のはずき嬢が宣う。「まあ!」、と笑っている妻君の恭子さんは、あの頃尾道の現場をショートパンツで駆け廻って御座ったなあ。
 日日の喧騒の中に紛れて、明日には忘れ去られて了いそうなこの一刻も、パチリと一枚の写真に納めれば、永遠に愛しい一瞬となるのでありましょう。

 この店の江戸前風の天麩羅は東京一と好んでくれた古い友、渡辺誠夫妻とここで撮った写真のことなどを思い出す。昭和天皇の時代から皇室の御料理番を務められ、平成天皇、皇太子のお世話までして、先年亡くなられた。宮内庁退職後、恭子さんの勧めで始めたパーソナルなお料理教室の、千茱萸さんは優秀な生徒であり、映画のみならず自らもお料理研究家となるに至る。我が一家にとって、まことに大切な友でありました。
 皇太子殿下がお若い頃、ぼくの昔の《転校生》が大好きであられたという嬉しい話は、渡辺さんが教えてくれたこと。後にお会いした殿下は、「ですから《転校生》のヴィデオを見始めると、ついつい徹夜して寝不足になって了います」、と笑ってらした。それで完成したばかりの《ふたり》のヴィデオを献呈したこともありました。殿下青春の日の一挿話であります。
 今夜は帰って、古い友と写した写真を眺めよう。
 これまた、人生の快事かな!

6月27日

事務所にてラジオ収録。《22才の別れ》全国公開のプロモーションもいよいよ始まる。

その後は書籍紹介の取材。今回は山中恒さんの『おれがあいつであいつがおれで』と福永武彦さんの『草の花』を。

 一日事務所で、『転校生・本』の執筆。合間にラジオ収録、「Bookレヴュー」取材。若い読者に推めたい本二冊ということなので、ぼくの青春の一冊、福永武彦の『草の花』と《転校生》の原作となった山中恒さんの『おれがあいつで あいつがおれで』について語る。
 新しい《転校生》を御覧になったある方から、『草の花』の強い影響を指摘された。分かる人には分かるんだなあ、と納得。人生は集積、蓄積だ。映画は、故に人生そのものです。
 夕刻歯医者さん。なかなか通う間が無いのでもう四年掛り。ゆっくり我が歯は再生されつつあります。老年にも再生有り!

6月28日

審査会に2日間出席。テレビ界の名プロデューサー澤田隆治さんと恩地日出夫監督。

 毎年一度はある「民放連」賞選考会。朝から夕刻まで北海道・東北地区の民放制作のヴィデオを見続ける。選考委員同士として、恩地日出夫映画監督、澤田隆治プロデューサーと久びさにお会いする。恩地さんは自作の映画《蕨野行》の上映を、メジャー配給から自主上映に切り替え、これが成功して撮影地の山形ではもう半年、現在も上映中とのこと。澤田さんも廃れゆきつつある古い町中の映画館を活性化する試みを模索中だとのこと。
 世の中も映画のありようも変わってゆくなら、良い未来が望めるよう変える努力もしなければ。

 夜は「学生映画祭」上映会のゲストで。渋谷の上映館は若い人で満席立見の盛況。上映されたのは既に受賞が決まっていたグランプリ、準グランプリの二作品だが、ぼくは事前に昨夜入賞の六作品も見ていた。何れも未来に向う美しさと力のある作品揃い。東京の一隅での受賞上映会なのでつい我われもそれで終らせて了うのだが、当夜上映された二作品などはそのままハリウッドやカンヌなど、世界の人たちに見せたらどんな驚きにつながるだろうか、と思った。
 実際現在の国際的な映画やヴィデオのフェスティバルで優秀な作品を呈出して来るのは学生さんたちに多く、ただ残念なのは彼ら自身に自覚が乏しく、多くが自らをアマチュアだと思い込んでいることだ。それは彼らを取り巻く大人たちの目の欠如でもありましょう。学生諸君にも、これで何処かに就職出来れば程度で満足などせず、世界の映画史に名をとどめるくらいの気概を持って欲しいと望む。プロは、最初からプロなのだ。その自覚さえあれば。
 映画の道を極めるには一生では足りぬのです。二生も三生分も映画に使わねばならぬよ。アマチュアやっている時間は無いぞ! でも学生さんたちと語り合うのはまことに愉しかった!

6月29日

 「民放連」。今日は選考結果発表とあって、作品の制作者も参加。みんなで語り合う。総じて現在のテレヴィの問題は、テレヴィがテレヴィであるという形に嵌り過ぎている所にある。旅番組といえば必ずのようにアイドルギャルかタレントさんが登場して、名物を食ったり風呂へ入ったりする。ぼくの所へも時にそういう依頼があるが、食事と入浴シーンが無ければと答えるから実現しない。しかし誰か食事・入浴シーン抜きで旅番組を作ってみないか。食事も浴場もより魅惑的に表現出来るだろう。
 視聴者は食事・浴場も含めて、風土の味わいよりはタレントを見たいのだという幻想は、テレヴィのみならず現在の日本の映画界までを被っている。アイドル、タレント、文化人、こういう存在を排除した所から、もう一度やり直してみたら、と思わざるを得ぬ惨状ではありますね! 実際にグランプリを献上した作品は、そういう見事なものでありましたぞ。普通の人が普通に生きて感動を呼ぶ。やっぱり作り手の見識こそが、良い作品を生み出す力になる。当たり前のことですよね。

 終ってNHK出版局「植木等さん特集」のためのインタビューに出向く。思い出話が弾んで約束の時間がオーバーするが愉しい。
 ぼくはクレージーキャッツを無名時代から見ている。植木さんは日本の高度経済成長期と共に生きてらした。「スイスイスダラダッタ」の時代である。「分かっちゃいるけど止められなかった時代である」。「黄金の60年代」である。突き抜けるように明るかった、富と繁栄の日本。そしてそれは「日本無責任時代」! そのツケが日本中に蔓延してやり切れぬ今のこの時代、植木等さんは静かにこの世を去られた。
 もっとも植木さん自身はとっくに、いやきっと最初からそのことに気付いていらしたのだろう。だから晩年はすっかり「責任男」のイメージで自己を表現して生きられた。黒澤明、木下恵介の両巨匠の許で古き良き日本人を美しく演じられ、ぼくの《あした》にも出て下さった。孫に未来を譲って自ら替りに死を選ぶ。妻役を演じて戴いた津島恵子さんが最後に植木さんに向って「ありがとうございました」と。
 今もう一度、その言葉を、心から!

6月30日

 古い友人根田家の長女靖子ちゃんの結婚式。顔馴染みの老友もみんな元気で嬉しい。御媒酌人のギャガ・コミュニケーションズ会長依田さんとは初めてお会いしたのだが、氏が何と長野のお生まれとお聞きしてびっくり。《転校生》ロケでお世話になった当市のホテルの社長さんとは幼馴染みだとか! このホテル、60人を超える我らスタッフの名と顔を一夜で覚えられ、翌日からは「○○さん、お帰りなさい」、と笑顔で鍵を手渡される。当たり前のことだがなかなか出来ないことでありますね! 「来週《転校生》拝見します」、と依田さん。再会を期して。

7月1日

 六本木の東京ミッドタウンで有線放送のためのイベントに参加。昭和の時代に就いての番組。8才で“敗戦”、20才で“黄金の60年代”を迎えた昭和の自分史、日本史を語る。この番組も依田さんが会長をされているオフィスのものとは、昨夜に続く御縁の中で生かされている悦び。
 音楽評論家の富澤一誠さんと昭和のフォーク時代と、ぼくの映画《22才の別れ》に就いての対談。愉しい一時を過しながら、富沢さん、「ぼくも生まれは長野です」!

7月2日

 思いがけない“長野つながり”の翌早朝、恭子さんの運転で長野に向け出発。運命に導かれつつ、今日も一日を生きている。その幸せに感謝を!
 長野NHKが《転校生》を番組にして下さる。ぼくが撮影地の旅案内。タレント文化人風に、テレヴィ風にならぬよう気を付けましょう。取材中、たった今《転校生》を見ましたという人にお会いする。わたしは昨日、などとも。公開して三週目だが、里の人はゆっくりゆっくり楽しみながら御覧になるのですね。撮影中、松代でお世話になった方たちとも嬉しい、そしておいしい再会が出来たが、わたしたちは来週、お友だち十二人と、とにこにこと。「若い人は夏休みに入ってからでしょうが、わたしたちは20年ぶりに映画を見ました。まあ楽しかったです!」と今回撮影でお世話になったお蕎麦屋さんの奥さま、またもう一度。ウチコミは、初日の入りは、とわめいているぼくらは、相当おかしな人種ですよね。長野では9月末まで上映が続き、《22才の別れ》にバトンタッチだそうです。

 一夜、ゆっくり長野の夜を愉しみ、明日は群馬へドライブ。「群馬県立女子大学」で講義。『映画の中の女性たち』。今年で三年目の連続授業であります。さあ、若い人たちにまた会えるぞ! 写真を撮り続けながらの旅の日日であります。

学生映画祭にゲスト出演。溢れんばかりの若いエネルギーいっぱいのこの場所に、また、新しい芽が誕生した。

友人御令嬢靖子ちゃんと新郎和雄さんの結婚披露宴に出席。リッツ・カールトン東京にて。

同じ席には恭子さんの同窓生のミッキーに、多岐川裕美さんと安藤満寿子さんが。そこに新婦母の久美子さんが参加してパチリ。

安藤夫人は今年で結婚68年目だとか。ご主人とお二人合せて189歳!お二人ともとてもお若く、本当に素敵なご夫婦です。多岐川さんは僕の映画《あした》に出演。

ケーキ入刀。二人とも笑顔。

靖子ちゃんと妹の祐子ちゃん。祐子ちゃんは大林組スタッフでもありました。

お色直しをした靖子ちゃん。真っ赤なドレスがとてもよく似合う。手前のお花も靖子ちゃんのアレンジだそう。

祐子ちゃんとお友達によるフラダンスのお祝い。なかなかのものです。

ぼくはピアノで二人をお祝い。夏、に合せた日本の童謡3曲を。

ミッキーはハーモニカと歌で。声もしっかり出ており、カッコイイ!

媒酌人で、ギャガ・コミュニケーションズ会長の依田巽さんと奥様の由美子さん。実は本日、奥様のお誕生日とのこと!

最後はみんなでパチリ。

若いお二人の未来には、平和な世界が待っておりますように!

日があけて、二日連続で東京ミッドタウンへ。今日はイベントのお仕事。34階の控室にて恭子さんとパチリ。

GYAO昭和TVチャンネルのイベント。若いお二人と昭和の映画について話す。8月公開の《22才の別れ》のポスターも飾ってくれました。

音楽評論家の富澤一誠さんと。愉しいひと時。よい映画とよい音楽は、いつまでも受け継がれるのですね。

ミッドタウンの会場には大勢のお客さんが。

イベント後、角川映画小林くんと三浦くんとで夕食へ。みんなでお肉を囲む。ここのチヂミもおいしかったなー。

2007年07月12日

アナログからデジタルへ。
 ──篠山紀信さんとの思い出。

今日はNHKのロケで長野へ。霧立ち渡る碓氷峠。真っ白な闇。

《転校生さよならあなた》で、一美の実家として御世話になった蕎麦処大丸さんにて。NHK長野の大湾瑠キャスターと。《転校生》番組の取材で!

店内には、撮影時の集合スナップや美術監督の竹内公一さんが書いた絵コンテ、ポスターなどが飾られていた。

大丸さんのご夫妻と娘さんと一緒に、パチリ。ご馳走様でした!

まだまだ撮影は続きます・・・・・・。

ファーストカットである東之門町の石段にて。普段ここは、あまり人が通らない 道だそう。

映画のラストシーン、戸隠高原の蕎麦畑で恭子さんをパチリ。春になると、一面真っ白な蕎麦の花で埋る。

 写真を写していると、時に思い出すのが篠山紀信さんのことである。写真家の紀信さんとは、若い頃よく一緒に旅をした。京都へ同行したり、ぼくの古里・尾道へ赴いたり、遠くカナダ大陸を放浪したりもした。
 ぼくはいつでも16ミリのムービーキャメラを手にしていて、紀信さんは珍しそうにぼくの手許のムービーキャメラにちらちらと目を遣り、ぼくもまた紀信さんがさっとカメラを構える勇姿を盗み見る。ぼくはムービーキャメラを構えると、一定時間はキャメラを廻し続け、時間の流れの中で作業を行う。ところが紀信さんはさっとカメラを構えると瞬時にして作業を終了する。共に映像でもって世界と対峙することを仕事としていたから、互いが手に持つムービーキャメラとスチルカメラとの違いに、従ってぼくらは互いに大いに興味を持っていた。ぼくがこの頃日日カメラを持って写真を撮るようになってから、カメラを構える度に紀信さんのことが心を過ぎるのは、きっとその故だろう。つまり、「写真って、何だ?」、とふと考えて了うからなんでしょうね。

 カナダのカルガリーへ『スタンピード』というホースレースの撮影に行ったときだった。同行したある企業の担当のおじさんが大のカメラ愛好家で、旅立つ前に紀信さんの用具を調べ上げ、全く同じカメラを購入して旅に出た。現地に着くや紀信さんはさっと仕事を始める。紀信さんがカシャッ! とシャッターを切るや、その姿をじっと見ていた件のおじさんは直ぐ様紀信さんが撮り終えたと同じ場所に立ち、同じ方向に向けてカシャッ!
 何日か経って互いに親しみを覚えるようにもなったあるとき、同様の撮影が終るやいなや、紀信さんが苦笑しながらおじさんにもの申したのである、
 ──あなたが、ぼくと同じカメラを持って、ぼくと同じ場所に立って、ぼくと同じ時間にシャッターを押したらね、ぼくと同んなじ写真が撮れるんですよ。それって盗作じゃありませんかねえ!
 なるほど、絵画や彫刻と違って写真は機具が撮る。それでは紀信さんの盗作説も尤もだなあ、とぼくには紀信さんの困り顔がとても面白かった。おじさんの方はこれまたまことに嬉しそうに、「わあ、それじゃあ今日から、わたしは篠山紀信だあ!」、と両手を上げて飛び上って見せて、危うく崖から落っこちそうになったものだが。
 けれども帰国後写真を現像し、紀信さんの写真の横におじさんが得意気に自分の撮った写真を並べてみて、驚いた。構図も何も一見同じように見える二人の写真だが、何かが違う。よおく見れば見るほど、全く違う。写真が伝えて来る何ものかが、まるで別の世界を写したように違うのである。
 さすがに次第に顔が青ざめてくるおじさんに向け、紀信さんはゆったりと微笑みを浮かべて、
 ──な、違うだろ、全然!
 うーむ、写真とはこういうものか、とぼくも深く頷いたことでありましたね。

 紀信さんはその頃色いろなカメラを使うことに挑戦していた。およそプロフェッショナルが使わないような小型のものや、当時流行し始めたポラロイドカメラなども使って写真集を編もうとも試みていた。どんな機器を使っても、つまりは「篠山紀信」の写真であり、むしろその機器たちがそれぞれに持つ“時代の空気感”を弄ろうと考えているように思われた。“必要は発明の母”である。一つの機器が生まれるには、そこに人間が持つ、その時代の欲望や願いが反映される。紀信さんの機器への関心は、いわばジャーナリスチックに時代と立ち向かおうという試みでもあっただろう。
 紀信さんはとうとう35ミリのムービーキャメラを手に入れ、「連続写真」を撮るという作業をまで始めた。それでぼくは紀信さんをムービーキャメラマンとして起用し、CMを何本か作ったりもした。映画のキャメラマンとは一味違い、まさしく“連続した瞬時の繋り”がそこにはあった。映像がより生命感を持っていた。生きているのであった。  一本まるまる映画をと願ってもいたが、数ヶ月間も紀信さんを拘束するのは無理なことで、これは果たせなかった。

 紀信さんがリオで撮った写真『オレレ・オララ』を、ぼくは自分で16ミリムービーキャメラで再撮し、映画を作ったことがある。20分ばかりの作品だが、ぼくはとても気に入っている作品だ。
 この厖大な量のフィルムを新宿の大きな日本旅館の畳の部屋一杯に拡げて、ぼくは徹夜で編集を行った。紀信さんはぼくの仕事場には入らず、隣室との境目の襖の陰から半身を覗かせて、きちんと膝を正し、フィルムをワンカットずつ選んでは糊付けし繋いでいくぼくの手許に、じっと瞳を凝らしていた。
 互いに一言も無いまま、食事も摂らず、やがて夜が白む頃、ぼくが「よおし、これで終わり」、と手を置いた。とそこで紀信さんも初めてポンと手を叩き、声を上げたのだ。  ──そうか! 映画の仕事っていつ、どのように終るのかと不思議で仕方なかったんですけど、カントクが「これで終わり」、と口にしたときに終るのかあ! そうか、そうなのか! 分かりましたっ! いやあ、ようやく分かりました!!
 「篠山紀信、三十才。きわめて健康!」。これがその映画のラストである。若若しい紀信さんが、カメラを手にジャンプしている。ぼくが山口百恵主演の映画《ふりむけば愛》を作り、その初日のオールナイト、満席の客の中に紀信さんがいて、上映後ぼくの姿を見付け、「百恵ちゃん、綺麗ねえ!」、と笑って握手した。その頃紀信さんも、山口百恵の美しい写真の数かずを残しておられる。それから時代は大きく流れ、ぼくと紀信さんがあいまみえる日も無くなって行った。
 映画はフィルムで作り、写真はアナログでの機器であった時代の物語である。

 あれから三十年! ぼくは今、生まれて初めてデジタルカメラを手に、日日写真を撮っている。いやいや“写真”とは未だ言えない。ただシャッターを押し続けているだけだ。紀信さんは、今どのようなデジタル機器で写真を撮っているのだろう? デジタル機器になってぼくが一番戸惑っているのは、いわゆる“シャッターチャンス”である。アナログの時代にはここぞとばかりに指でシャッターを押すと、すかさずカシャ! と写真が撮れる。しかし今はその感覚が無い。その代わりに良いクオリティーの映像が手に入る。時代がそれを望むのですと、先日オリンパス社の小川治男さんとお会いしたとき、その疑問をぶつけたらそう応えられた。なるほどなあ! 映画だって今は「連続写真」ではない。するするするするとクオリティーの良い映像がスムーズに流れて行くデジタル時代だ。

 昨年ぼくは二本の映画を作った。《22才の別れ》は現在のデジタル機器で。一方今上映中の《転校生》は全編アナログで。この映画を見た人が異常な程の興奮状態になって何度も繰り返し見て下さっているのは、その今は珍しいアナログ感覚故だろう。主演で新人の蓮佛美沙子の評判が良いのもアナログで表現された演技が新鮮であるからでもあろう。「するするするする」ではなく「カシャカシャカシャカシャ」と演技も映るのである。年配の方にはいつか見た昔の映画の愉しさが。若い人には新鮮な驚きが。全編アナログ仕立ての映画は現在は皆無なので、写真や映画に関心のある人は是非見てみて下さいね。懐かしいだけじゃなく、いわゆる“温故知新”としても。

 さて、紀信さん、今は如何お過ごしですか? 紀信さんにとって、今は写真は如何なる存在なのでしょう? 折あらば、そんな話もしてみたい。ぼくは来年70才。紀信さんももう還暦ですよねえ。あの頃は無かったデジタル機器を手にして、また昔のように一緒に旅が出来れば! いっそ念願だった映画を共に作ってみる! ぼくらの時代はアナログからデジタルへ。それは一体、どういう時代だったのか? あるいは、どういう時代であるべきだったのでしょうかねえ!

一美と一夫の通う善光寺北中学校、改め長野県立長野西高等学校にて。たくさんの生徒さんがエキストラに参加してくれた。

撮影時に松代・山寺常山邸でスタッフ・キャストに豚汁やおむすびをたくさんつくってくれたご婦人の方々と。

今回もたくさんのお料理でもてなしてくださいました。ご馳走様でした!

一夫と一美が入れ替る”さびしらの水場”。この重要なセットは全て地元の建設会社サンビーム長野さんが作って下さった。

真冬、一夫と一美が何度も飛び込んださびしらの水場の前には、色鮮やかな菖蒲の花が。

撮影が終了し、立ち会ってくれた21世紀長野映画の会代表の江守健治君と恭子さんとで、イタリアンを。木下恵介監督の常宿でした。

日が明けて、ホテルから見た長野の街。そして、信州の山並・・・・・・。

江守君が夢見た《転校生》完成祝いでお昼。器からはみ出るほど大きい海老!

ヴェテランドライバー恭子さんの運転で長野を出発。群馬へ向います。

帰りも、やはり霧こんでいた碓氷峠。

群馬に到着。群馬県立女子大学にて講義。今年で3年目。学生だけでなく、地元の方々もたくさんいらっしゃった。

講義に参加していた、高崎映画祭の茂木正男さんとスタッフの皆さん。《転校生》を見て大興奮で駆けつけてくれました!

次の日、日活芸術学院で特別講義。多くの若者と触れ合う貴重な時間。

出口孝臣プロデューサーが来社。実は、《転校生》の小林聡美を僕と引き合わせてくれたのは彼。映画の話に花が咲く。

TBSラジオの伊集院光さんの番組に生出演。25年前、正に15歳だった少年から見た《転校生》の話を聞く。充実した時間でした。

TBSの富原さんと角川映画の三浦君、そして、自宅まで僕を送ってくれる頼もしい運転手さんと一緒に。

尚美学園大学で募集する、”高校生映像フェスティバル”募集のチラシ。プロとも大学生とも、また違った作品が出てくるので、毎回楽しみ。「正直」な映像に期 待。

今日は、教授を勤める尚美学園大学大学院で授業。24年前に上映された僕の《廃市》を皆で見る。このリポートで前期が終了。

2007年07月26日

お客様に幸せにして貰いました。

NHK FMにてラジオ生出演、スタッフと打ち合わせを。今回は公開放送との事。

《22才の別れ》《転校生》に出演の俳優、斉藤健一君ことヒロシさんのラジオ番組でした。台風直前の大雨だったにもかかわらず、たくさんのお客様が。

前日の台風が去った後の空をパチリ。

宣伝会議主催のパネルディスカッションに参加。この日も、シナリオライターを目指す大勢の方たちが会場に。

中園ミホさん、大宮エリーさん、君塚良一さんと。今をときめく脚本家さん達です。

《転校生》を観に新宿ガーデンシネマへ。ポスター前でパチリ!

映画の後、横ちゃんとお寿司屋さんへ行く。村田雄浩君の巣をのぞく。

 三連休の最後の日、青山学院で『宣伝会議コピーライター養成講座50周年記念スペシャルカレッジ・青山「書く」院大学』なる催しに講師として出席し、それから思い立って新宿ガーデンシネマに封切りもう四週目に入る《転校生》を見に行った。
 表に看板一つ無い映画館に入り、見当をつけてエレベーターに乗ったら一階登り過ぎて了った。ぼくの顔を見て安心したのか、一緒に乗って乗り過ごされた二十代後半か三十代頭くらいの品の良いアヴェックさんも「アラアラアラ」、と再び一緒にエレベーターで一階下がる。どうやらこのお二人も、この映画館は初めてらしいな。
 前の回が既に終った後だったので館内はガラガラ。先程のアヴェックさんを加えても三百人の席に四、五人か。まあいいや、では貸切り状態でゆっくり映画を見直しましょうと座席についていると、それから約二十分。予告編がいろいろ上映され、いよいよ《転校生》上映という頃合にはいつの間にやら館内は約半数の客で埋まっている。そうなのか、昨今では皆さんインターネットで時間も調べて劇場に足を運ばれるから、きちんと上映開始に合わせていらっしゃるわけですね。
 それにしても静かなお客さんだなと見廻すと、ぼくの席は最後尾に近かったのだが、眼前に窺えるお客さんの後頭部には禿頭の方がちらほら。全体に中高年の方が多いって感じですね。映画が始まっても客席はシーンと静まり返っていて、笑い声一つ起きない。
 ──ああ、これはATG(アート・シアター・ギルド)の雰囲気だな、とぼくは思った。
 そういえばこの場所は、昔新宿文化というATGの劇場があった所。ジャン・リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらのフランスのヌーベルバーグや日本の大島渚さんら、先鋭的にして芸術的な映画群が大人の観客に人気のあった時代で、そういう純粋に映画的な魅力だけで見せる映画を求めて、映画通のファンたちが集まった。あの頃の、身じろぎ一つせずスクリーンを食い入るように見つめて動かない人たちの姿を思い出したのですね。
 《転校生》といえば、中・高校生たちが賑わい、場内は沸き返えるであろうと宣伝部の人たちは期待していたようだが、どう見ても十代から下の若い人の姿は全く見られない。でもこれは、ぼくが内心想像していたのと同じ状態でありましたね。《転校生》とは、実はそういう風に作られた映画であったのです。
 アイドルさんやテレヴィで売れっ子のタレントさんが出ている訳ではない。だから昨今流行のイベント映画になる筈もない。25年前にこの映画を愛してくれた人たちと、静かに再会を果しつつ、「映画」が持つ魅力だけで作ろうと試みた映画。
 故に封切一、二週でリピーターが出始め、この日も帰りしな、「また見に来ます」、と挨拶された方も多かった。静かだが、熱い。25年前がそうだった。映画館では大人たちが見て、子供たちはテレヴィで後から親たちに薦められて見て、ファンになってくれたのだ。尾道にロケ地巡りの若者たちがつめ掛けたが、一人で旅して来るくらいだもの、若いといってもせいぜい大学生から上の大人だろう。
 この日の客席の静かで熱い姿は、ぼくを幸福にしてくれました。終ると皆さんと握手し、パンフレットにサインした。売店で働く劇場のお嬢さん方も嬉しそうににこにこ顔で、まるで昔の映画館のようだった。
 そういうお客様と一緒に映画を見ると、自分で作った映画でもまた違って見えるのが面白い。映画とは結局はお客様がこうやって作って下さるのだ。この日は《転校生》が素晴らしい映画に見えて、ああ良かったなとほっとしたものでした。
 明日は尾道へ。新旧《転校生》の上映と町を考えるシンポジウム。25年の日本の変わりようも語られていくだろう。尾道には昔歩いて行ける所に九軒もあった映画館が、今は一軒も無い。だからホールで上映となります。映画もやっぱり、昔と今とでは随分変わったのだねえ。
《転校生》は25年の違いは勿論あるが、映画自体の面白さは昔と変わらぬはず。これからまだまだ日本中の地方の町を駆け巡ることになるだろうが、昔の映画ファンの方は是非どうぞ。そしてそういう大人の映画愛が、若い人や子供たちにも伝わっていくなら嬉しいな。
 青山大学の催しで、テレヴィでの人気脚本家、大ヒット作品を作られている若い方方の話を聞かせて戴いた。さすが皆さんその中で才能を発揮されている見事なプロたちですが、この世界にもいろいろこの時代のご苦労がおありの様子。ぼくなどの世代の人間には信じられないような事も起こるんだそうです。
 エンタテインメントとはおもてなし。ぼくらはお客のためにだけ耐えたり我慢したりもする。でもそれは喜びであり、それ以外の理不尽な我慢などする必要はさらさら無し。もっと明るく楽しく映画作らなくちゃね。主演の女優が脚本家に向かって脚本の直しを要求する。全編書き直させるなど映画がどんどん低下していく。そんなことが実際に起きているらしい。見せられるお客が実際は犠牲になっているのでは堪らないでしょうね。
 ともあれ、この日のぼくは、素敵なお客様に囲まれて、幸せこの上ない思いを味わっていたのでした。皆さん、ありがとう。

YANASEの会報誌面で元NHKアナウンサーの頼近美津子さんと対談。

編集スタッフの方々。編集長の多岐川さんはなんとご近所にお住まい。

高田文夫さんのラジオに生出演。ナビゲーターの春風亭昇太さんが事務所に来て下さった。実は彼とは、立川志らくさんの映画でお互い“役者”として一度共演しているのです!

はずき嬢のピンクとベージュの色合いが綺麗と恭子さんがパチリ!

プロデューサーの山ちゃんと沖縄帰りの千茱萸さんと森ちゃんがお土産を持って事務所へ。PSCスタッフ4人組をパチリ!!

《転校生・本》編集スタッフ柳谷君と秋田さん、今回イラストで寄稿の相馬君が来社。相馬君は美術の薩谷さんの助手として、長年僕の映画のスタッフとしても参加してくれていた。

みんな集ってパチリ!!!

USEN昭和ちゃんねるの収録で渋谷のスタジオへ。今度昭和ちゃんねるのホームページで僕が1ヶ月ナビゲーターを務めます。

《転校生》新旧ダブル上映会で尾道へ。

《転校生》所縁の中田美術館で久びさに中田さんと3人で。

尾道スタッフと中田一家とでフランス料理で夕食会。みんなの久しぶりの笑顔。

上映会ポスター。いよいよ明後日!

尾道の平谷市長が挨拶に来て下さった。

RCCの収録で御袖天満宮へ。一美と一夫が入れ替る運命の階段。

東京から横ちゃんとメイクの岡ちゃん、はずき嬢が合流。では、続きは来週……。

2007年08月02日

機械時代の中を、どのように生きようか。

喫茶こもんのママを中心に、皆でパチリ!

照明部で、メイクの千江子さんのご主人和栗ちゃんも合流。芸予諸島の一つ、大三島の海岸にて。

砂浜には小さな花をつけた植物がびっしり。瑞瑞しいグリーンとピンクや黄色の花が、白い砂浜を鮮やかに彩っていた。

大三島ふるさと憩の家。ここは20年ほど前までは現役の小学校だった。廃校後、校舎をそのまま活し民宿として蘇った。コンクリートには無い、深さと温かさのある木造の校舎。

朝礼台もそのまま。

校舎をバックに、皆を…パチリ!

明日の《転校生》新旧ダブル上映会の前祝い。乾杯!!

上映会の当日、ホテルの窓から見た尾道の朝。

 新幹線に乗って弁当を使っていると、検札官がやって来た。少し年配の女性の車掌さんだ。
 ──あら、お食事中ですから、また後で戻って参ります、とにこにこ笑顔で通り過ぎていく。
 良いなあ! と思った。昔はこれが当り前だった。車掌さんは概ね年配の男の人で、その笑顔にはこちらも笑顔で応える。何だか嬉しくて、ああ旅とは良いものだなあと呟いてみたりもする。旅は、人と出会うものであった。
 昨今は世の中も忙しくなって、食事中だろうと歓談中であろうと検札はお構いなし。まあいちいち食べ終わるのを待っていたら仕事にもならぬだろうと諦めてはいるが、使っている弁当を一旦膝に置いて切符を取り出して検札を受けるというのは、なかなか煩雑なことではあります。楽しい会話も途切れて了う。
 だから「また後で戻って参ります」、のにこにこ笑顔は嬉しかった。ぼくは切符を胸のポケットに入れ、直ぐに取り出せるように準備はしていたのだが、ここは車掌さんの好意を素直に受ける。「ご苦労様、窓の外はもう夏ですねえ」、「はい、私も夏が大好きなんです」、などと一言、二言交せられればもっと楽しいね。

 尾道へ向かうので、新幹線を手前の福山駅で降りる。この駅は、実はぼくの自慢である。改札口が現在何処の駅でもそうであるように、いわゆる機械で被われているのではなく、ちゃんと駅員さんがそれぞれの通り口に立って、胸には自身の名を大きく標した名札まで付けて、送り迎えして下さるのである。
「行って来ます」、「行ってらっしゃい」。「お帰りなさい」、「ただいま!」、と名札の名を呼んで、これだけでうんと幸福な気分にもなりますよね。
 ぼくはともかく、あの機械仕掛けの中は通らないように努めております。あれを通ると自分までが無感動な機械人間になりそうで怖いからです。だからどこの駅でも一番端の、駅員さんの立っている所を通ります。
「お早うございます」、「行ってらっしゃい」、と笑顔で声を掛け合って切符にパチンと検印を押して貰うのです。年配の駅員さんだと、これでうまく旅立てます。ところがよく若い駅員さんからは、「あちらの機械を通して下さい」、と無愛想に切符を突っ返されることもありますよ。まあ、あちらも忙しい。ぼくのような人間と言葉を交わすのも面倒だ。機械は便利で速いのだからあっちを通りなさい。それが現代人というものでしょう!
 ところがその機械が年中故障するから、結局は各通路口に駅員さんが困った顔して立っている。なるほど「現代」だなあ、とこちらも苦笑せざるを得ないってことになりますな。機械を通さないと降りる時も、どんなに離れて遠くても、駅員さんの居るゲートを通らねばなりません。その不便を心配して機械を薦めようとされる若い駅員さんもいらっしゃる。「大丈夫ですよ。ぼくは必ず人の居る所を通りますから。いまもあなたと話せて良かった、ありがとう」、「はい、お気を付けて。ありがとうございます」、と互いににこにこ。これがやっぱり嬉しいなあ!
 でもね、確かに世の中、こんな余裕は無くなりました。映画もそうですねえ。映画とは穏やかで楽しい、人と人との会話があるものだった。例えば和田誠さんのご本などに、映画の中の名言を集めたものがある。それは殆ど会話の中の言葉です。映画の記憶は「言葉」の記憶だった。だから映画は楽しく、心が癒されもし、生きる勇気さえ貰えた。人間の温もりがありましたものね。ところがどうだろう? いまの映画の記憶は「映像」ですよね。アクションであって言葉じゃない。だからジェットコースターに乗っているようにスピード感やスリルは味わえるが、ゆっくり会話する楽しさが失われていく。これって、やっぱり真剣に考えてみなきゃならない事の一つじゃないのかなあ。で、ぼくもこんなことを書いてみるのです。

 尾道では25年前に尾道で作った《転校生》と、いま封切り公開中の、新しい信州・長野で撮影した《転校生ーさよならあなた》を二本立てで上映。この25年間の地方の小さな町の変化を見つめ、新しい時代を生きる子どもたちの未来に、どういう町を残し、伝えられるかというトークショウ。ぼくが卒業した尾道の小学校にいま通う小学生までが参加してくれましてね。
 五百席のホールに一日二回で千人。大盛況でした。「今生の思い出に、これが最後の《転校生》見物!」と頬笑んでくださった老婦人。その手に引かれた小さな男の子。さあ、君たちの時代が始まるぞ。そうそう、長野の娘さんまでが、尾道を訪ねて下さっていたりもした。
 しかし、この二本立ては、やっぱり「25年」の時の蓄積を受けて、本当に凄かった。一つ驚いたのは、25年昔の《転校生》は、若い俳優たちの言葉が実に美しい。きちっと相手に向って語り、応え、つまりはよく聞き取れるのです。現代はやっぱり「独り言」風のニュアンスが、発声法に沁みついていますね。これは演出家として、深く考えねばならない事です。
 東京へ帰るとそのまま《22才の別れ》の試写会会場へ。いよいよ大分ロードに続いて、8月18日から全国公開が始まります。これも伊勢正三さんの同名の歌から発想した映画。歌が生まれてから30年の日本の時の流れの中の恋物語。歌も、この時代の歌は「言葉」が美しかったです。歌の中にも人間の「会話」がありましたね。ですからゆったりした美しい物語の映画を作ることが出来た、と改めて幸福に思いました。あなたの誕生日に22本のローソクに火を点して、「17本目からは一緒に火を点けた。昨日のことのように、……」。お客様もみなさん、それぞれの心の思い出に小さな火を点し、幸福そうな笑顔でお帰りになりました。

 そのまた翌日は、空路松山へ。伊予銀行さんでの講演。空港へ着くやいなや、ファンの人たちに囲まれた。松山では《転校生ーさよならあなた》が8月4日から公開だとのこと! どこへ赴いても、映画、映画の日日です。映画でモノを考える。映画でコトを行なう。昔の映画から、学ばねばならぬのは、美しい人間の姿なんでしょうね。難しいけど大切なこと。一所懸命、ぼくもやります。
 今日は府中で教育関係の人たちのお集りで話させて戴く。夜はNHKの『クローズアップ現代』で「80歳の日本一周ーある老人の残したメッセージー」に出演。先輩の生き方から美しさを学ばせて戴こう。
 明日からは滋賀の『成安造形大学』で授業。若い人たちからも明日のことが学べるから嬉しい。一日一日、ぼくも大事に生きよう。

 あっ、福山駅もとうとう改札口は全部機械になってました。年配の駅員さんと一寸立ち話。「まあ、この時代ですからねえ」。駅員さんは敢えて無感動に語られたが、ぼくらはここから、ぼくらの明日をどう始めなければならないのだろう。ぼくらの「続き」を生きていく若い人のためにも。「余計なことだ」、とも言われそうだが、ぼくらはだからこそせっせと「会話」を続けなきゃならないんだろうなあ、と思うのです。
 機械は話してくれないもんなあ、人間に会いたいなあ、──とは今日のぼくの、細やかな「夢物語」でありました。

会場では新旧のパネル写真展もやっていました。

当時のスナップ写真も。短パンを履いて…僕も若いなあ!

関連書籍とDVDの販売コーナー。地元の本屋さんが販売に来てくれた。

午前の上映会には、親子で来てくださった方方がたくさんありました。

我が母校、土堂小学校の頼もしい後輩達も。

後輩達をパチリ。25年前と、現在の尾道をスクリーンで見て、どう思ってくれたかな。

午後の上映、会場内の様子。ほぼ満席!

尾道の方方がこんなにたくさん集まって下さった。本当に嬉しいなあ。

彫刻家の高橋秀幸さんと対談。街の姿や文化、人。25年という時の流れを映画で感じる。

今回いろいろとがんばってくれた『転校生』尾道上映実行委員会のスタッフの皆さん。どうもありがとう!

《転校生》が初めて公にプロデュース作品だった恭子さん。あれからもう25年、僕の作品をずっと手がけてくれている。

上映会にはなんと長野から来てくださった方が。25年の間に《転校生》は土地と土地、人と人とを繋ぐ作品となってくれました。

上映会は大盛況の内に幕を降ろすことができました。スタッフ皆に感謝!こもんでお疲れ会の様子。

帰京の日。夏の日差し。福山城をバックにタミちゃん、恭子さん、はずき嬢、幾ちゃん、横ちゃん。

東京駅からFMホールに直行。《22才の別れ》上映会の控室で、ダイアックスの鈴木さんと頼住さん。

今年ツアーで随分忙しい正やんと知ちゃん。

聖奈と美玲の久々の顔。女性らしくなりましたねえ。

角川・井上社長と筧君、美砂さん、寺尾君も集まり、試写会前にパチリ。

舞台挨拶の打ち合わせの様子。二人とも真剣な眼差しをこっそりパチリ。

いざ舞台挨拶へ。会場にはたくさんのお客様。女性が圧倒的に多かった。

マスコミ用写真撮影の為に中央に集まって。若者は皆緊張の面持ち。

松山へ向う飛行機内から上空をパチリ。雲の草原が広がる。空の青さが引立った。

伊予銀行の特別講演会へ。

伊予銀行の方方と時事通信の方とで最後にパチリ。

新居浜から松山に向う車中から。眩しい夕日と、山山の濃淡が美しい。

東京都市教育長会の講演。

NHKの生放送、スタジオにて。国谷キャスターとスタッフの皆さん、恭子さんと。80歳の原野さんから勇気と元気を戴きました。

2007年08月09日

ある、夏の話。

早朝出発して、今日から2泊で成安造形大学の集中講義。穏やかな成安の里山。

美しい馬蹄形の棚田。1000年の歴史を持つここ仰木には、このような美しい棚田が未だたくさん残っている。

青春時代からの友、小林はくどう先生とパチリ。

高峰剛監督とはくどう先生。

1日目の午後からは学生たちの発表が中心に行われる。授業がどんどん進み、終わったのは何と20時!

授業後、校庭で行われた盆踊り大会に参加。学生達は皆、浴衣に身をまとう。色鮮やかな浴衣と囃子の音色が、仰木の里の夜を賑していた。

 風は強いが、真夏日である。ぼくの心は、少年に戻る。
 ——愛って、譲り合うものだよ、と学生さんたちと話をした。皆譲り合って、それで誰もが不幸になった。そういうお話なんだ。
 ぼくが二十三年前に作った映画《廃市》についての話である。夏休みが来るので尚美学園大学院の前期のリポート提出のために、同僚の先生がこの映画を院生たちに見せたのであります。
 ——だったら奪い合って、皆幸福になれば良いのに、が若い人の意見である。
 尤もな考えである。現実(ホント)の世界では、それが良いに決まっている。
 ——しかし文学や映画では、人間は一所懸命こういう物語を工夫して編み出した。愛というものの本質(マコト)を考察するために、ね。悲劇(ウソ)にはそういう力がある。

 《廃市》は福永武彦に依る純文学。ぼくはそれを少数のスタッフにより、九州・柳川にロケを行って、小型キャメラで極く低予算の純映画に仕上げた。
 近頃は学生さんでも低予算に小型カメラで簡単に映像作品を作るが、その多くは現実(ホント)の世界に根差した大衆娯楽の路線に添ったもの。これは映画より、むしろテレヴィのドラマが手本になっているからであろう。
 ぼくら古い映画人は、虚構(ウソ)を描くことで真実(マコト)を焙り出そうと試みるが、テレヴィでは何とか現実(ホント)に寄り添おうと努力する。もともとが映画は「物語装置」、テレヴィは「情報装置」との違いもあるからであろう。
 そんな訳で、ぼくのたった二十年余の昔の映画は、現代の学生さんたちにとっては、もうまるで古典でさえあるようだ。
 《転校生ーさよならあなた》もまた、きっとそのように見られたのだろうなあ、と思ってみる。製作配給をして下さった角川映画ではコミック本まで出版して現在の中・高校生の動員を望んだようだが、客席は見事に大人の観客ばかりでありました。
 伊勢正三さんや、さだまさしさん等のフォークコンサートに時どき招かれて行くが、ここで感銘を受けるのは、ファンもまたアーチストと共に歳を重ねていくものだ、という事実。昔の若者たちが、そのままおじさん、おばさんになって、幸福そうに席に集っていらっしゃる。
 それは映画だって、同じだろう。ぼくの映画のファンは、やはりぼくと一緒に大人になって来たのだね。その親となったファンの人たちが我が子に見せたくて映画館やテレヴィの前に座れば、子供の世代にも伝わって行く。ぼくの映画もそうやって歳を重ね、育って来たのでありましょう。
 《22才の別れ》も、そういうならばやはり、愛を互いに譲り合って生きていく登場人物たちのお話です。この物語が今を生きる若い人たちにどのように見られ、受け止められていくのだろう? 先日の試写会でも、会場は大人の人ばかり、沁み沁みとスクリーンに向い合っておられましたなあ。あ、若いお嬢さん連れのお母様もいらしたけれども。
 そんなこんなで新幹線に乗って、成安造形大学の前期最後の授業に趣く。琵琶湖の風が心地よく、この里の夏は爽やかで美しい。
 早朝から夜の十時過ぎまで、学生さんたちと彼らが作った映像作品を、二日間で五十本ばかり見て合評する。これが素晴しく愉しい。彼らの明日に向う才能が、みるみる育っていく。自然の山野の里の命の姿を見ているようだ。
 夜はそのまま居酒屋に繰り込んで深夜まで飲み喋る。皆を抱きしめてやりたいほど、彼らは美しい。
 《転校生》も《22才の別れ》も、彼らのじいちゃんが拵えた映画である。考え方の違いは映画の違いともなって表れているだろう。けれども人間の願いや考えを同じ映画史、伝統の中で、通り抜けて来た仲間同士である。分り合い、共感出来ることがまた楽しい。
 今夜はシナリオ教室の若い人を前に話をする。シナリオは映画の基本であり、人が生きていく筋道を辿る業である。こういう場所で若い人と触れ合うのは、緊張するし、愉しい。ぼくらの未来と語り合えるのですからね。
 『わたしの人生を変えた一冊』という取材で福永武彦の『草の花』を紹介してみた。『廃市』の作家の、若書きの書物であります。やはり愛を譲り合って、譲り合っていく美しく悲しい物語。お若く知的な美しさを漂わせた編集部のお嬢さんと話が弾み、しかもこの本はロングセラーとして、今も若い人たちに熱心に読み継がれているのだとその人は仰る。
 『草の花』を読んだのは遠い日の尾道の夏。ぼくは十六歳で、「さびしんぼう」でありました。
 京都の高林陽一さんから新作のDVDが届いた。高林さんは七十五歳におなりだ。「昔大林さんと8ミリ映画を撮っていた。そんなことばかりを思い出しながら、今も映画を作っておりますよ」。そう仰る高林さんの声も、完成した映画もまことに若若しく力強い。《涯てへの旅》というこの映画、高林さんは現代の学生諸君と同じミニDVで撮り上げられたのだ。
 ぼくら映画の道を涯てへまで、歩いて歩いて、歩き続けて参りましょう。
 この夏は、久びさに古里・尾道の山小屋で、新しい映画の脚本を二本、書く予定でおります。ぼくの心は、少年に戻る。

2日目。授業前にパチリ!

今日も20時過ぎまで授業。元気な学生達をパチリ!前期の授業は本日で終了です。

みんな、またね。よい夏休みを!

帰り道、新幹線の中から浜名湖をパチリ!

美術の竹内さんと悦子さん夫妻、そして悦子さんの同窓生、高橋政彦君が来社。彼は《彼のオートバイ、彼女の島》で一日スタッフとしても参加してくれていた。なんと20年ぶり。

大分植樹祭からの付き合い、山ちゃんと小椋さんも合流してみんなでイタリアン。映画と良き仲間達に、乾杯!

NHK「私のこだわり人物伝」の収録でスタジオに。

今年春に亡くなられた植木等さん。僕の映画《あした》では役者として出てくださった。品のある、最後の正統派喜劇人でした。

打合せの様子を、恭子さんがこっそりパチリ!

今年二回目の民放連盟賞の合評会の様子。今回も、楽しく学べる番組が多く、審査は難航。

シナリオ作家協会主催の公開講座の様子。毎年行われるこの講座には、地方から参加される方も多いとか。

管理人さんが飼っている鯉。事務所のマンション屋上には何十種類もの金魚や鯉が飼われており、管理人さんは飼育のスペシャリストなのです。

2007年08月16日

新藤兼人先輩の本のこと。

夏の空、

緑の大地、

新幹線に乗って、

走る、走る。……

尾道の山小屋から見る、村と海と空と雲。

尾道映画の大道具さん。大田さんと息子さんと。

沖をゆく船と船。

新聞社の伝ちゃんも。

別の船もやって来る。

では、恭子さんと一緒に。

 世にも美しい本を読みました。
『新藤兼人 いのちのレッスン』(青草書房・刊)。
 これ以上は、ぼくには書けません。
 どうか、みなさん、読んで下さい。

 美しい、ということは、汚してはならない、ということです。ぼくが何か文字を書くと、この本を汚して了いそうで、怖いのですね。
 でも、書いてみます。もう少し。
 一行、一行、読み進む度に、ぼくは慟哭しておりました。激しく打ち震える我が胸の思いを、抑えることが出来ませんでした。抑える必要などもありません。ぼくのわだかまった心は開放され、素直な自分にどんどん戻っていくのです。それは、とても幸福でした

 ──年を重ねるとともに、こうした人の愚直なまでの誠実さこそ、わたしは愛と叫びたい、と強く思う。命ある限り、わたしの感じた愛を描きたい。人間賛歌を歌いたい。
 ──煩悩を抱えるわたしではあるが、最後の最後まで素朴でありたいと思う。誠実でありたい、と願うのである。
 こう書き結んで、この書物は終るのであります。
 で、「帯」には、「95歳の『遺書』。夫婦は同時には死ねない。95歳、独り残った私は、今、20億円欲しい!」、と印刷されております。

 この本の中からの、長い引用をお許し下さい。
 新藤兼人さんは、こう語られています。
 ──わたしには果たせぬ念願がある。「ヒロシマ」という映画を作りたいと思っている。原爆が炸裂した瞬間、熱線がひらめき、広島の人間は虫けらのように焼かれた。その瞬間を映画にしたいのだ。広島を再現し、広島の人が「ピカ・ドン」と表現した、そのピカ・ドンを映すのだ。原爆の映画はわたし以外に何本も作られているが、誰もピカ・ドンを描いていない。
 ──シナリオも書いてある。企画書も書いた。広島市長の賛同も得た。しかし──。制作費が二十億円かかるのだ。現在、一本の映画が五億円かかるとして、その四倍である。ここでわたしの「ヒロシマ」は頓挫する。
 そして、更にはこう書かれる。
 ──今こそ二十億円が欲しい。行政のムダ使いを見直せば、二十億円が捻出できるのではないか。しかし、わたしは現実を知っている。二十億円はどこからも出てこない。「ピカ・ドン」は映せないのだ。人間が作った地獄の一秒、二秒、三秒をわたしは描きたい。五分後、十分後に何がおこったかを描きたい。一個の原爆でどんなことがおこるのかを描きたい。
  ──人間が作った地獄の正体から、人間は目を背けてはならない。

 「行政のムダなどに目を向けなくとも、今世界中で映画を作っている人間のうちほんの数人が、自分が作る映画の一本を止めれば、新藤さんの「ヒロシマ」は実現するのだ。なのにやはり、ぼくらは新藤先輩に「しかし、わたしは現実を知っている。二十億円はどこからも出てこない。『ピカ・ドン』は映せないのだ」、と語らせるままで何も成し得ないのか?

 この書物では、一人の青年が映画と出合い、人を愛し、多くの仲間を得て、しかも商業主義には流されず、独立プロを創設し、「一つカマの飯」を食いながら、「参加希望者だけにしぼった最小のスタッフによる合宿体制」で、「いかに食べ、いかに生きるか」の答えだけを求めて、映画を作って来られた、その記録が草されている。
 ──人間には心がある。その心が何かを思うはずだ。感じるはずだ。思ったことが、感じたことが夢につながる

 映画は人間が見る夢である。新藤さんはこの世で最も美しい夢を願いつつ、映画を作っていらした。
 この書物の表紙は、新藤さんが人生最良の映画のパートナー、乙羽信子さんと結婚された後の、信州・蓼科の別荘での、くつろいだお二人の姿で飾られている。ぼくは丁度いま、その頃の新藤先輩と同じ年になった。歳ばかりが同じで、映画の志も、映画に願う夢も、新藤さんの背はまだまだ遥かに遠い。
 しかしそのことにわが身を打ちひしぐよりも、遥かなる映画の道に向って飛んでいく勇気をこそ、この本からは貰えるのである。
 新藤さんが歩まれたと同じ道を、自分も歩いて行くのだと身が引き締まるのである。

 だから同じこの道を往く若い人には、是非この本を読んで欲しいし、またより多くの人には、この書物により、映画とはこんなに美しいものなのだ、そして、人が生きるということも、と実感して欲しい。
 なので、どうか、みなさん、読んで下さい。
『新藤兼人 いのちのレッスン』という本を。
 お願い申し上げます。

 尚、この書物は長瀬広子さんという方の、新藤さんへのインタビューから構成されたものだと知って、一層の驚きを禁じ得なかった。ここでは正しく、このお二人は見事に一体化していらっしゃる。
 ぼくはこのことからも、新藤先輩の映画作りの幸福を思った。人が信頼し合って共に生きれば、自ずと互いに、美しく一体化するのであろう。長瀬さんにも、心から有難うございます、と。

 ぼくはいま、恭子さんと二人、尾道の海の前にいる。
 数年ぶりの古里の夏は、やはり美しい。
 蝉がわんわん鳴いている。それを包み込んで、海は静かだ。
 この海は、新藤さんの海でもある(ぼくは子供のころ、ご縁があって何度か“兼人お兄ちゃん”をお見掛けしたことがある、のだと思う)。
 この海がいつまでも静かで穏やかであることを願って、ぼくもいま、新しい映画の想を練り始めているのである。
 その同じ道の、ずっと先を歩いておられる新藤兼人さんや、多くの先輩たちに、心から感謝して、今日は一日を過そう。
 幸福な、夏であります。

船たちも集って、

恭子さんが作ったガンボスープに伝ちゃん嬉しそう。

遠い船に瀬戸の島。

山小屋の上の雲が綺麗。

瀬戸は夕暮れ。

ゴミを運んで伝ちゃん帰る。

翌朝も快晴。下に見えるのは《転校生》の海。

大きな船もゆくぞ。

マナブくんの美容室で、タミちゃんと恭子さんも綺麗。

子供の頃から馴染みの日山の肉屋さん。

すき焼きのお肉を買いました。

《転校生》《時をかける少女》《さびしんぼう》を作った頃のティールーム「TOM」の看板が今もあります。

尾道のお店へ。

母が大好きだった天狗のすし。いつもいつもおいしい古里の味。

お店まわりで楽しいな。

カサリンガ ドゥ ターブルでイタリアンを食べよう。

町で出会った若い人たちと、尾道も若々しくなりました。

レストランのオーナーたちと。

夜はマージャン名人が揃いました。

村の朝。海には大きな船が、今日も。

船がゆく。

船がゆく。

ああ、船がゆく。

高校時代からの同人雑誌の友、村上禎一郎さんと。

禎さんはこの島で小説を書いている。

タミちゃんがお買物して。

おお、夕焼け雲。

みんなで、

食事。マージャン名人。笠井さんも。

今日も快晴。しかし、入道雲がいなくなりました。

今日も船は働いている。

禎さんの妹さん、靖子さんも。

こもんの大谷さんがワインを持って。

友が集り、楽しい。

ぼくは毎日『転校生・本』を書いておりました。

古里の海は、沁み沁み美しい、です。

2007年08月23日

《22才の別れ》、全国公開、初日のこと。

今日は夏らしい入道雲が浮いていました。

ここから35年も静かな瀬戸内を見下ろしている僕の山小屋。

今日も大きな船が。

尾道スタッフとディナー。

なかた美術館のオーナー、フミさんを囲んで。

東京に戻る朝。家の前の砂浜で仲良し三人組。

夏空の下を福山駅に向う。

《転校生》にも出て来た福山城。

 《22才の別れーLycoris 葉見ず花見ず物語》の全国公開が始まりました。
 8月18日、東京テアトル新宿の初日にて舞台挨拶。これが久びさに、大いに愉しかったなあ。今年はコンサートを月に8本平均こなしているという超多忙の正やん(こと、伊勢正三さん)もいの一番に駆けつけてくれて、「三十年以上も昔、まだ22才前のぼくが一所懸命背伸びして作ったこの歌が、50歳をちょっと過ぎたいまになって映画になるなんて」、と舞台の上でご挨拶。『なごり雪』と『22才の別れ』は、九州・大分県の津久見市という小さな海辺の町で生まれた正やんが、上り列車に何十時間も乗って東京へ出て、そこで続けて作った二つの歌。それが三十余年も日本の人に愛されて、唄い継がれている。ぼくは六年前の《なごり雪》に続いて、今度《22才の別れ》を映画化したのだが、ここではこの三十年の、日本の激動の歴史の中を、一所懸命生きて来たぼくら日本人の暮しの様を、映画の物語に託して描こうとした。

 ──あなたに「さようなら」って言えるのは今日だけ、……
 ──あなたの誕生日に22本のローソクを立て、「一つ一つがみんな君の人生だね」って言って、17本目からは一緒に火を点けた、昨日のことのように。……

 高度経済成長、バブル時代の崩壊、失われた十年、そして21世紀へ。物と金に溢れた黄金の60年代から、再び心の時代を迎えようとする日本のいま。その間、人は生き、人と出会い、人を恋し、そしていくつもの別れがあった。辛くても悲しくても、そこには喜びもまたあり、誰もが一所懸命に。
 安保闘争に息子を奪われた母から、日本の経済成長に一生をかけた団塊の世代の人たち。そのパワーの下、安定した世の中で白けざるを得なかった四十代。ノストラダムスの世界崩壊予言の中で明日を信じられぬ時代を生き、我が子を生むべきか否かに悩む三十代。そしてその混沌の中からもう一度、恋の思いに互いに寄り添い合おうと傷つき、傷つきながら「あなた」を手繰り寄せていく20代のふたり。共に同じこの歌を唄いながら。

 筧利夫、清水美砂、峰岸徹、村田雄浩、根岸季衣、窪塚俊介、細山田隆人、寺尾由布樹、河原さぶ、三浦影虎、そしてこの映画でデビューした鈴木聖奈と中村美玲、それから特別出演の立川志らく師匠。勿論、我らが正やん、……こういう人たちが舞台に勢揃い! よく気の合った仲間たちだから、それはそれは愉しい同窓会。場内満席のお客様と一緒に、二度も舞台挨拶を。そしてお客様も一緒に、筧君の音頭で公開初日記念の一本締めまで!

 会場にはいつものぼくの映画の如く、年配のお客様が多い。昔映画を愛した人たちが、映画らしい映画を求めて集って下さったのでしょう。それに今回は、正やんと共に歳月を重ねて来た人たちも。かつてこの世に存在した良い映画、良い歌をいまに伝え、明日に残していくのが、ぼくらの仕事ですものね。そして若者たちが、その親たちの背を見ながら、ついて来てくれればいい。

 舞台挨拶が終った後は、関係者全員で近くの中国料理店でお疲れ様の食事会。話が弾んでまたまた同窓会! 映画の中では抑えた演技で静かだった筧君に村田君、峰岸君に河原さぶちゃんら、中高年組が次つぎに賑やかで愉しい司会役で喋りまくる。北海道のロケ先から駆けつけてくれた美砂ちゃんや季衣くんも乗せられて、笑い声が断えぬ。窪塚君はアメリカでの演技訓練の体験を披露して感銘を与え、《なごり雪》では最年少だった細山田君はもう年長者となって余裕の笑顔。由布樹君の名は撮影地の大分の名山由布岳の由布だし、影虎君は正やんの古里津久見の隣町、佐伯の生まれが縁で出会った人たちだ。新人の美玲も聖奈も撮影から一年と半年。大分での上映の旅の経験も踏まえて大きく美しく成長してくれた。
 最後に聖奈は仲間たちの前でご挨拶。溢れる涙にくれて一言も話せない。でも一所懸命、自分の言葉を自分の心の中から探し出して語ろうと努める。「羨ましいわ」、とは季衣ちゃんがふと漏らした一言。そう、この聖奈の一所懸命こそが、表現の基本。どんなに大人になり、ヴェテランになっても、この初心を心に保っていれば、人間は美しくもあり続けることができるのです。聖奈よ、いま、君は君を見つけたんだ。いつまでも君は君自身でありなさいね。

 《22才の別れ》は、全国いろいろな所で、順次上映されていきます。大きな宣伝などしておりませんから、心の中の大切なものを探し出すように、どうかこの映画を見つけて下さいね。心ある映画人が集って作りあげた映画です。必ずおもてなしいたしますから。

 会の最後には、新藤兼人さんのご本『いのちのレッスン』の話をして、お別れしました。先週みなさんにお話した本のことです。また会う日を約束してね。

 三浦影虎君は新藤さんの体験を新藤組の若き山本保博さんが初監督した《陸に上った軍艦》に出演している。根岸季衣さんはこれから新藤組の撮影で尾道に行きます、と嬉しそうに語っている。新藤組の俳優さんが二人もここに居る。誇らしいことです。

 ぼくはこれから秋に向って、次の映画の準備を始めます。愛する人たちと、また会えるために。今日も良い天気。夏の空の下です。

タミちゃんと幾ちゃん、ありがとう!

東京に着くや否や、花火大会観覧のお誘いを受けてお友達のご自宅へ。

出張鮨屋さん。握りたての鮨は美味い!

恭子さんと同郷の、秋田美人安井香奈子さんと阪本美貴子さん。

撮影監督の高間賢治さんと、早稲田大学教授安藤紘平さん。

みんな揃って。都会の花火の夜をバックに。……

《22才の別れ》初日の前日、聖奈とたくさんの取材を受ける。

聖奈と聖奈パパ。

聖奈と恭子さんも。

ダイアックス社同級生コムビ。

帰り道。首都高速とビルの隙間に、ほんのり淡い夕空が顔を出した。

《22才の別れ》初日の朝、舞台裏の控え室で正やん、聖奈と。

大林映画常連組の根岸季衣さんと村田雄浩君も応援に駆けつけてくれた。

出演者の一人、立川志らく師匠も!

二作連続出演の窪塚俊介君。後ろには村田君と正やんが。

正やん夫人知ちゃんと、筧君も応援に!

一回目と二回目の舞台挨拶の間は、志らく師匠とのトークショウ。

総勢15人!豪華な舞台挨拶となりました。

北海道から駆けつけた美砂さん。

舞台挨拶後のランチ。最多出演の峰岸徹さんを囲んで。

河原さぶちゃんも応援に来てくれた!

若手俳優陣に混ざって千茱萸 さんと森ちゃんと横田さん。

乾杯のビールが美味い!

大脚本家、南柱根君を囲んで。

筧君と美砂君のリードで、若手俳優陣のご挨拶。

新人聖奈、旅立ちの挨拶。

パンフレット担当の千茱萸さんも、お祝いの挨拶。

ラブラブの正やんと知ちゃんご夫妻。

書斎の窓に映る夕日。

ほっとくつろぐ。夕暮れのひと時。

2007年08月30日

映像と言葉。
 ──臼杵・ふるさと風の映画学校にて。

火曜日。「ダイノジ THE MOVIE」の収録でUSENへ。大分出身のお笑い芸人、ダイノジさんと。《HOUSE/ハウス》を始め、僕の作品ほとんどを観て下さってるそう!

水曜日。来日中のフランスの写真家Jerome De Perlinghiが来社、撮影をしてもらう。

写真集を手に、みんなで。

各国の映画人を撮り続けていらっしゃるJerome氏。"目力"を意識して撮影されているそう。仕上がりが楽しみ。

ジャズシンガー大橋美加さんのご息女、大谷瑠奈ちゃん出演のミュージカル『ココ・スマイル5』を鑑賞。弟の耀司君も。

ミュージカル鑑賞後3人で夕食へ。そこへなんと勝野洋君が来店! 現在お芝居で忙しいそう。

 写真を撮るときに大切なものは、言葉であります。
 何故なら、人間は言葉で考え、言葉で自分を表現する。猫が脚で押しても写真は写るけれど、人間が写した写真は、そこが違う。
 小学校四年生の男子が花を撮った。
「花が開いていて、綺麗だったから」。
 花は画面の中央にこちらを向いて大きく、どーんと映っていて、フォーカスはちょっと甘くも見えるが、しっかり開いて、「ほら、ぼくだよ」、と主張している。
 同じ四年生の女子も花を撮ったが、こちらは「可愛いかったから」。なるほどその花もまた画面の中央に大きく映っているのだが、まるで女子児童に肩に手をかけられたように、少し微笑んで「わたしです」、と身を傾けている。
 中学の生徒さんは、町角の家を撮った。ところが肝腎のこの家は明るい真昼なのに影になっていて真っ黒で、家の前の地面だけが日が良く当って広く真っ白に映っている。
「何だか臼杵っぽいと思ったから」、が写し手の彼の弁である。

 大分県の臼杵市で、小・中学生が中心になって、『ふるさと』をテーマに写真を撮った。夏休みの最後の土曜日、臼杵市のホールでの発表会。大勢の児童や生徒さんがそれぞれに自身が古里を撮った写真を手に集ってくれた。スクリーンに映し出された写真は、そっくりそのまま、この古里である。
 大分県臼杵市を中心にして、ぼくは二本の映画と一本のショートフィルムとCMを二作撮影した。この九年の間に、であり、そもそもはミレニアム2000の大分植樹祭の演出をお引受けして以来のご縁である。
 その臼杵市で、市民の皆さんが中心となって『ふるさと風の映画学校』が立ち上げられたのが去年のこと。ぼくは今年からその『校長先生』に就任。その最初の授業が、町の子供たちによる古里を写した写真教室。
「この町は、三十年前から何も変わっていないんですよ」、と六年前、臼杵の後藤國利 市長は胸を張って言われた。「昔のまんまの日差しや風が、わたしたちの暮しを守ってくれているんです」。その言葉から生まれた映画《なごり雪》は、だから三十年昔の機材を探し出し、若い俳優さんたちも三十年昔の映画の中にあった、美しい日本を話した。あの日本の高度経済成長期に、当時の行政が誘致した巨大なセメント工場を、市民全員が力を合わせて撃退した。こうして守り、残し、伝えられた日本の古里である。ぼくたちは臼杵発のこの映画を自ら持って全国を廻り、この影の多い古い日本の小さな町の姿は、多くの人に愛され、その町から生まれる人間の物語は多くの人の心を打ち、それが今年の《22才の別れ》に繋がって行った。そして昔変わらぬこの町の家を映して「臼杵っぽいと思ったから」、とこの里の未来を生きる子は『古里自慢』する。

 9月24日、ぼくは恭子さんと大分に向う。大分空港にはあの植樹祭でぼくを大分に引き合わせてくれ、その後はぼくの映画のプロデューサーを務めてくれている山ちゃんが迎えてくれるのはいつもの嬉しい情景で、植樹祭の時の心地良い緊張感が体内に蘇る。がそこに北海道の『星の降る星・芦別映画祭』の梅ちゃんとタダちゃんのコムビのにこにこ顔も見えるので、一瞬、「ここは何処?」という感覚に陥る。
 芦別の学校はその昔、芦別の当時15才の少年鈴木評司君が、ぼくの古里・尾道に映画《さびしんぼう》のロケ地巡りの旅をし、その時出合って一日中尾道を二人で歩いた尾道の「ボケじいちゃん」が忘れられず、「いつか自分も古里のボケじいちゃんとなって、我が古里を訪ねてくれる旅の若者と古里の道を歩きたい」、と願ったことから生まれた、市民中心の学校。途中でその評司君を若くして失いながら、芦別の人たちの手によって守られて育てられ、今年で15年目を迎える『映画学校』の先輩。ぼくはやはりここでも『校長先生』であり、で、今回も臼杵の兄妹校の出発にお祝いに駆け付けて下さった、というわけ。
 臼杵の映画学校では山ちゃんのお姉さんの奈緒美ちゃんが事務局長。あの『植樹祭』がご縁の県庁の偉い方だが、恭子さんが名付けた「県庁のヤクザのお兄ちゃん」のオノさんやら、芝生係のヤマモトさんやらが、わーっと集ってくれた臼杵のおじいちゃんや姉ちゃんらと皆の力でこの映画学校を支えて下さっているのが嬉しい。尾道から駆け付けてくれた『山陽日日新聞』の伝ちゃんが「この笑顔ですよねえ、大切なものは」、としきりと感嘆。

 9月25日、開校式には《22才の別れ》チームのダイアックス社長ヨリちゃん、主演の鈴木聖奈に寺尾由布樹、俳優事務所社長横ちゃんに恭子さんの事務所PSCのはずき嬢も参加。聖奈は11月の臼杵『竹宵』には般若姫役で里帰りするし、宇佐神官では映画に因んだコンサートを行なう予定。昔からの大の映画ファンであるヨリちゃんとは映画談義に花が咲く。製作会社社長ヨリちゃんこと頼住さんとこういう話に興じられるのが楽しい。別府温泉で親孝行したい、などともね。
 夜は臼杵や旅の人たちとパーティ。この里の皆さんの心づくしの手作り料理が何よりのご馳走。とびきりの笑顔の味が幸福です。
 9月26日は、皆で黒島へ向う。オランダ船リーフデ号日本漂着、西欧文化との邂逅の地でもあり、《なごり雪》の撮影の地でもある。黒島の住民の方の心づくしの魚貝類を囲んで、出席者全員の自己紹介から授業開始。
 実はきのうから驚いていたのだが、この臼杵の映画学校には、大分全県の人は勿論、全国からの参加者が多数。お一人お一人のスピーチの中から、ぼくの映画との出合いや日本の古里との出合いの歴史が切切と語られていく。映画とのこうしたそれぞれの人の大切な出合いがあったからこそ、ぼくらはいまこうしてここに集っている。親、子、兄弟、友人、そしてまた独りで。映画が無くても人は生きていけるが、映画があればこそ、こうした幸福な一日が持てるのです。
 映画を一本拵えれば色いろなことがあって、辛い悲しいことも実は一杯あるであろう恭子さんも、きょうはそういう人の温もりに触れて素直に感謝の涙を。次の映画への勇気を皆から貰うことができました。ぼくはお禮の気持ちをこめて、黒澤明さんや本多猪四郎さんなど、ぼくらの先輩の映画人の話をしました。あの方たちの映画の画面には、しっかり人間の言葉が映されていましたねえ。だから単なるアクションやムードだけではない、人間の映画になっておりました。ぼくもそういう映画の学校から学んで、いまも映画を作り続けています。

 臼杵の映画学校では《22才の別れ》がまたまた二回も上映されました。芦別の映画学校でも去年上映され、臼杵からも沢山の人が芦別を訪ねました。今年の秋は、また臼杵から芦別へ。今年は《転校生》を上映。こうして古里同士も仲間になっていくのです。
《22才の別れ》、東京では二週目。テアトル新宿では大勢のみなさんが、既に多くのリピーターも含め駆け付けて下さり、いま全国的に大きなうねりとなって広がっています。いわゆるトレンディーな芸能界風の映画ではありませんが、ここからは多くの古里びとの言葉が語りかけてくる、生きた暮しの夢の言葉が聞こえてきます。その言葉を受けて自分も色いろものを思ったり、考えたり、願ったりする。それが映画の愉しみである筈ですよね。
 あなたはいま、どんな言葉をお持ちですか? どうか、応援して下さいね。

木曜日。書籍再版に向けての打合せと、・・・・・・

《転校生・本》出版に向けての打合せがありました。

金曜日。明日の"ふるさと風の映画学校"の為大分へ。まずは別府入り。

山ちゃん、DIAX頼住社長、聖奈、そして北海道・芦別の梅田さんと多田さんとでまずはお昼。

食事後ツーリズムおおいたの桑野和泉さんに取材を受ける。彼女は旅館・玉の湯さんの社長さんでもあります。

みんなで、パチリ!

実行委員長の辛島奈緒美さんと実行委員の山本定幸さん、戸次清一郎さんとで、明日からの映画学校の打合せ。

夕食。20歳になった聖奈は恭子さんが見守る中、お酒に挑戦!

宇佐神官音楽祭のスタッフさんも打合せにいらっしゃった。食後にみんなで。

土曜日。一行は臼杵へ移動。東京から寺尾君、横田さん、はずき嬢も参加して、いよいよ“ふるさと風の映画学校”の開校です!

まずは聖奈と寺尾君のご挨拶。

辛島実行委員長より、校長就任の委任状を頂く。

最初の授業は、小・中学生による「瞳の中のふるさと発見塾」。大人顔負けの作品の数々に審査員達も脱帽。

生徒代表の少年へ、聖奈から記念品の贈呈。

最後は皆で写真撮影。その後「ふるさと風の映画学校ヴィデオ上映会」、パネルディスカッションと授業は進む。

一日目は無事終了。これからウェルカムパーティーの会場へ。移動の車から《22才の別れ》の看板をパチリ。

臼杵の方方の温かい御持て成しを受ける。聖奈と寺尾君、はずき嬢、おいしいご馳走をパクリ!

臼杵の後藤市長と久しぶりにゆっくり御喋り。おいしいお料理を頂きながら。・・・・・・

大勢の方方が、この映画学校に参加してくださいました。

《なごり雪》からのお付き合いの後藤市長。行政に携わる一人 として、臼杵に住む一人として、映画を愛してくださる一人として、温かい励ましのお言葉を頂く。

映画学校として先輩、"星の降る里・芦別映画学校"の梅田実行委員長と多田さんのご挨拶。映画が人と人、土地と土地とを結ぶ。

臼杵の医師、大塚先生のお嬢様によるチェロの演奏もありました。「22才の別れ」など3曲。

パーティー後は《なごり雪》で撮影もした"国宝臼杵石仏火まつり"へ。《なごり雪》のときは実際の火の3倍を灯しました。

揺らめく火の光に、皆夢見心地な表情。

喫茶【クランク・イン!】に戻り、鹿児島から6時間もかけて駆けつけてくださった橋口さんによるマッサージのひととき。あまりの腕前に思わずニコリ。

心知れる仲間達と酒を交わす。飲んだ後はスタッフにも人気の【のんきや】さんのおでん。【フレンド】のステーキなど、腹に染み渡る味。尾道の伝ちゃんも。

2階では田中さん親子によるフォーク演奏。なんとも、いつかの歌声喫茶のよう。皆思い思いのひとときを過していた。

【ぷくぷく】の川野恵美さんと、「県庁のヤクザのお兄さん」こと小野恒芳さん。

楽しい集いは、夜が深まるまで続いた。・・・・・・

宿に戻って。寺尾君はお稽古のため明日朝に帰京。ありがとう!

日曜日。清清しいお天気の中、授業二日目は《なごり雪》ロケ地の黒島にて野外授業。今から船に乗り込みます。

黒島に到着。今回の映画学校は大分を始め、北海道、神奈川、岐阜、福岡、広島、鹿児島などなど、・・・・・・

全国からたくさんの方方が参加してくださった。まずは一人ずつ自己紹介。

その後スタッフによって、大分で獲れたホタテやサザエなど食材が準備されていく。

黒島の美しい海と、・・・・・・

美しい空の下でこれからバーベキューが始まります。

新鮮な海の幸がたくさん!

関アジを、贅沢に焼いて頂きました。身がプリプリ。

皆で楽しく、そして、大切に噛締めながら味わいました。

北海道のお二人も、今日は南の地で獲れた新鮮な食材に舌鼓を打っておりました。

北海道から差し入れのとうもろこしや大分産のベーコンも。

後藤市長と奥様もいらっしゃいました。手作りプリンの差し入れに、聖奈ニッコリ。

植樹祭芝生係からのお付き合いの山本さんは、今回一家で参加。

スタッフの中村さんは「(今回の映画学校を通して、)おばあちゃんのことを想った」。と写真を持ってきてくれた。古里への愛は、家族への愛であるのです 。

フォーク演奏をしてくれた田中さん親子も。

《22才の別れ》から大分スタッフとして参加してくれている戸次君。これからもよろしくお願いします!

小野さんも植樹祭からのお付き合い。今日までの9年分の想いが、思わず込上げる。

海をバックに、皆で記念撮影。

楽しかった黒島の看板前で聖奈がポーズ。

皆に見送られて出航。ありがとう。またね。

楽しい3日間となりました。

2007年09月06日

秋、の気配が。……

鎌倉映像フェスティバルに参加。開会前のスタッフのみなさんは大忙し。

平日にもかかわらず、会場にはたくさんのお客さんが。

ビクタービデオフェスティバルの牛頭さんも参加。

主催の川喜多記念映画文化財団の岡田晋吉さん。昔は一緒に映画を作りました。

受賞者のみなさん。今回は鎌倉がテーマの作品を募集。みなさん丁寧に、この地の物語を撮られていた。

岡田さんと江ノ電沿線新聞社の小林真理子さん、鎌倉で映画と共に歩む会の藤本美津子さん。

フェスティバル終了後、ビクターの古い仲間 中村さんと山元さんとで食事。ビクタービデオフェスティバルも今年で30年目を迎える。

事務所にて。千茱萸さんとはずき嬢は今月行われる事務所移転の為の対策会議中。

 《恋路物語》という映画を見せて貰った。色いろと嬉しいことがいっぱいある映画なので、その話をします。
 製作は「水俣KOIJI Short Story製作委員会」、とあります。「水俣市で撮影した映画というと、大概は水俣病に関する映画と思われますが、そのイメージを変えたいとこの作品が出来ました。水俣の方々が水俣市を水俣病以外で知ってもらいたいという事で、KOIJI Short Story制作委員会を発足し、全国から恋物語を募集しました。345作品の応募があり、グランプリの『おばあちゃんの恋』という物語を原作に撮影しました。映画制作は初めての制作委員会の方々、ボランティアの方々、ほんとんど水俣市民の方々と、苦労はしましたが楽しく作った映画です」、とは、この映画の監督を務めた、菅野宏彰さんのお手紙の中の一文である。
 この《恋路物語》のDVDが、菅野さんのお手紙と共に送られて来た。早速見せて戴いて、驚いた。先ずは文中で語られている、その水俣の美しさである。叮嚀に光と影と色彩とに配慮された撮影が、その技術に支えられて見事な情感を醸造している。伝統的な日本映画の中にかつて存在した日本の田舎の町の風景が、思いがけなくもいま現代の一地方の古里の暮しの風景の中に蘇る。
 山があり、川があり、海があり、くねくねと曲がった細い道がどこまでも続き、家家が点在する。日が昇り、日が沈み、その中を人びとは一所懸命、笑顔を作って暮らしている。「ああ、こんな町で暮らしたいな」、と心から素直に思われる。そんな美しい日本の古里の町の姿が、作り手の細やかな、そして強い愛情に支えられて、スクリーンに浮び上っている。まことに幸福な映画体験であります。
 主人公はこの町で暮らす一人の女子高校生とその家族、そして彼女の学友の男子生徒。この若い二人を演じる谷村美月と松澤傑君がすこぶる良い。幼いながら一所懸命の役者魂が美しい。谷村さんはどこかで見た娘さんだなと思っていたら、去年公開された良心作《酒井家の幸せ》のヒロインだった。彼女に恋して振られる少年を演じた森田直幸君は今年ぼくの《転校生》に出演している。というのがこの《酒井家の幸せ》を撮った呉美保監督は、ぼくが北海道の芦別市で市民の皆さんと続けている『星の降る里・芦別映画学校』の卒業生で、ぼくの事務所で五年映画作りを学んでから監督デビューを果した若い人で、その上に嬉しいご縁だが《恋路物語》の菅野監督は同じ北海道の『ゆうばり国際映画祭』で1907年にぼくが「オフシアター・コンペティション部門」の審査委員長を務めていた時のグランプリ作品《Party》の撮影を担当していた人で、これも内海まゆみさんという若い監督さんによる素晴らしい作品だったが、そんなことが繋がって、今回ぼくの所へDVDが送られて来ることとなったのであります。
 谷村美月さんを見ていると、大型の商業映画やテレヴィのトレンディードラマなどとは異なるこういうしっかりと地に足がついた所で頑張っている若い俳優さんの存在がとても頼もしく思えるし、日本映画の真の豊かさはこういう場所から、いま大きく羽ばたき始めているのだと嬉しく感じられる。そしてまたこの映画は見事な“水俣映画”であり、こうして日本の一つの古里から、良質の映画が現実に誕生していくことは映画文化のためにもまことに喜ばしい。
 きょう頂戴した重藤哲男さんという方からのお手紙でも、この方は去年の『芦別映画学校』に参加下さった福岡県田川郡を古里とする人だが、その古里でもこのたび、古里出身の民謡歌手赤坂小梅さんの生誕百年を記念して《小梅姐さん》という映画が作られ、いま全国に向けて上映が進められているのだそうだ。臼杵の映画学校のこともご存知で、こういう古里同士の交流がどんどん広がって行く。ぼくの大分映画《22才の別れ》もその仲間の一本なんですよね。

 8月28日は『鎌倉映像フェスティバル』の第一回。ここにも沢山の古里作品が集った。77才の高齢の方から中学生まで。オンリーワンの映画群が一同に揃って語り合う。この日の会場では25年昔の尾道《転校生》も上映されました。尚、鎌倉には9月7日も、ジョン・ウェン生誕百年の講演に伺います。
 8月30日は、久びさに市川森一さんとお会いしました。次の映画は重松清さんからお預りしている『その日のまえに』。その打合せで、ぼくと恭子さんの古い友、佐々木昭人シェフのフレンチレストラン『クレオール』で、昔懐かしい宮廷料理風のこってりした美味を頂く。
 ──と書いたところで、寺島咲くんが訪ねて来てくれました。《理由》でデビュー、《転校生》を終えて、ますます美しい娘さんに。良い“女優”に育ってくれているので、安心です。また彼女の映画を考えなくっちゃ。

 随分、涼しくなりました。皆さん、お元気ですよね! 『転校生・本』、10月には出版を、と総仕上げ中です。

“青春の一冊”についての取材を受ける。僕は勿論「草の花」!

これから新しい映画の打合せ。でもその前に、恭子さんと通り掛りにふとブティックに立ち寄る。僕は腕時計を新調。

買ったばかりのオレンジの腕時計を付けて。打合せ場所は馴染みの“クレオール”。シェフの佐々木昭人君と服部支配人。

市川森一さんと。重松清さんの《その日のまえに》脚本打合せ。映画を一緒に作るのは《異人たちとの夏》以来。

重松さん担当の出版社の方々と山ちゃんも交えて。昔風宮廷料理のこってり味に大満足。

打合せ後、石川敏男さんのラジオ番組に聖奈、美玲と出演。《22才の別れ》について語る。

最後にみんなでパチリ!

我が事務所のひまわり娘 はずき嬢のバースデー。恭子さんからひまわりを受け取って。

寺島咲くんが今度出演の映画チケットを持って遊びに来てくれた。マネージャーの園部さんとパチリ。

今日は長野・上田へ講演の旅。碓氷峠のあたりでいつも深い霧に覆われる。

トンネルを抜けると・・・そこには真っ青な空が!

上田市の森教育長さんと、この里の美しさについて、文化について、語り合う。

いつも元気、母袋市長もいらっしゃった。市長さんにお世話になった《転校生》の上田上映が始まった所。

たくさんのお客様。ここ、上田市真田町は戦国大名の真田氏の発祥の地。そしてラグビーが盛んな町だそう。

長野県出身、立川談慶さんのご家族も。上田観光大使「猿飛佐助」のぼくと、市長さんと。

千茱萸さんが毎年審査委員を務めている、うえだ城下町映画祭のスタッフさん。

実行委員会のスタッフのみなさんと。さよなら、またね!

帰りに蕎麦屋へ。はずき嬢は味噌になめこを絡ませたタレで頂く、真田うどんを注文。

恭子さんは真田そば。僕はざる蕎麦を。上田の蕎麦屋は普通盛りが山盛り! たっぷりあります。

蕎麦処”刀屋”さんのみなさんと。お漬物まで頂いて、ご馳走様でした!

USEN会長の依田さんのお誘いを受け、みんなで西麻布へ食事に。

米倉ジムの米倉ご夫妻と恭子さん。

依田ご夫妻とミッキー。そして・・・、

久美子さんのご主人哲雄さんと多岐川裕美さん。おいしいお食事とワインを頂きながら、みんな楽しそう。

恭子さんと僕も、ホロ酔い気分。久々のツーショット。

“江ぐち”の女将さんと料理人さん。割烹着姿が素敵ですね。

楽しい宴は終り、依田ご夫妻とはここでお別れ。お近くなのか、歩いて帰られました。

残った一行は、お酒が飲めないミッキーの運転で京王プラザホテルのラウンジへ。

裕美さんと久美子さんはお元気。恭子さんは珍しく運転役から解放されて・・・。

二次会の席でみんなをパチリ。夜が深くなるまで続きました・・・。仲間と会うのは愉しい。

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