暖冬は、普段の暮しの中では有難いものだった。「暖かいですね」、「助かりますね」。しかし今年は、有難がってばかりはいられない。「一寸、恐いですね」、「冬はやっぱり寒くなくちゃね」、と僕らの挨拶も変わってくる。人間は、言葉で考え、言葉で語る。暮しの中の言葉の変化を観察していると、時代の動きがよく判る。
──五十年後の長野の子供たちに見せたい、伝えたい映画を、と信州・長野の人から依頼を受けた。映画は大きなビジネスでもあるから、普段は「今日、儲かる映画を」、である。それが「五十年後」とは、純粋に文化・芸術としての依頼である。これは嬉しかった。誇らしかった。
偶然のように、同じ長野の講演先で、四十代の男性から、「昔、十代の頃《転校生》という映画を見た幸福が忘れられません。今わたしの息子が十代ですが、見せたい映画が有りません。どうかもう一度《転校生》のような映画を」、と懇願された。
時代が求め、願うものが、明らかに変化している。僕は映画作家であり、文化・芸術の徒であるのだが、それは「劇映画」をペンやカメラ代わりにして、娯楽で物を語るジャーナリストである、と自覚している。僕らが日常生活の中で嫌な事、辛い事、忘れていた方が楽な事、けれどもやっぱり考え続けなければならない大切な事に対して、笑ったり泣いたりしながら愉しく向き合い、考え易く、語り合い易くしてくれるものが、映画である、とは大先輩の黒澤明監督も仰っていた。だから黒澤映画が描いて来た物語は、新聞で言うなら第一面か社会面のトップ記事のような事象ばかりだ。例えば《天国と地獄》のような貧富の差が生み出す幼児誘拐事件。政財界の腐敗と汚職に目を向けた《悪い奴ほどよく眠る》。マスコミの暴力を扱った《醜聞(スキャンダル)》。原水爆の恐怖からノイローゼとなり、家族もろともブラジルに移住しようとする父親と一家の確執を軸にした《生きものの記憶》。癌で死にゆく一庶民の生きがいを称えた《生きる》。貧しい恋人二人の細やかな幸福を願う《素晴らしき日曜日》。更には、武士の美学と農民の生きる智慧を対比した《七人の侍》。娯楽時代劇の一篇《椿三十郎》にだって、滅法強い正義の剣豪三船三十郎をお城の奥方がゆったり諭して語る「あなたはまるで抜身の刀です。本当に良い刀とは、きちんと鞘に納まっているものですよ」の一言は、現代の抜身の刀の如き文明、経済の使い方に対して、美しく賢い人間のありようを諭されているようだ。そして黒澤映画は、どんなに醜い悲しい事象を描き、告発していても、結末では人間の勇気と希望を手繰り寄せようと努力する。決して絶望のままでは終わらない。黒澤明は、人間を信じ、信じようとしている。それが世界の人の心を動かし、優れた娯楽にも芸術にもジャーナリズムにもなり得た。そしてそれこそが、文化・芸術の役割であったのだ。
その上で、僕は「五十年後」を考えてみよう。それはまことに恐ろしい。果して五十年後のこの日本に、世界に、地球上に、人間は無事生きて暮らしているのだろうか? そして、子供たちは? 現在は五十年後の平穏が、俄には信じ難い時代である。五十年後の子供たちにこの映画を伝えるには、五十年後の地球上に彼らを無事存在させてやる努力から、僕らは始めなければならない。五十年後に子供たちが生き続けている条件は、只一つ。世界から戦争を無くし、そこに平和が創造されている事。その為に、僕らは今何をすべきなのか?
二十世紀は、戦争の世紀でありました。科学文明の殆どは、実は「兵器」として発展して来たのです。恐ろしい事に、経済もまた。映画の機器も兵器という目的があって開発され続けて来た。二十世紀は「映像の世紀」でもありましたが、それは戦争を起こし、戦争を記録し、挙句に「2001.9.11」の映像を以って、その集大成とした。あの映像がハリウッド映画の新作のクライマックスだったら、僕らはポップコーンを食べ、コカコーラを飲みながら大喝采を送った事でしょう。だからテロリストたちは映画の夢を盗んで、彼らの行動の効果的な宣伝としたのです。つまり僕ら映画人は彼らにヒントを与え続けて来た訳で、あれはテロリストが勝手にやった事と言い逃れは出来ない。
アメリカのジョージ・ルーカス監督は超人気シリーズ《スター・ウォーズ》の製作を六作で中止した。当初は九作の企画だったのにね。しかしどうして《スター・ウォーズ》だったのだろう。《スター・ピース》だって良かったのにね。それが「兵器」のDNA。
ルーカスは最近、もう長編大作劇映画は撮らないと宣言したそうです。これをやれば殺戮と破壊までを娯楽にしなければヒットせず、資金回収も覚束無い。それは観客の側の責任でもありますね。どうしても《スター・ウォーズ》になってしまう訳だ。で、ルーカスはこれからは小さな予算で、小さな生命が大自然の中で一所懸命生きている、そんな姿を描いた映画を作りたいのだと。即ち《スター・ピース》の作者になろうという宣言でしょう。
超娯楽大作ヒットメーカーのルーカスのこうした引退宣言を勿体無いと惜しむ声も多いが、僕は心から称えよう。彼はジャーナリストとしての見識と勇気を示したのだ、と。
荒唐無稽だとも思われていた二十世紀の映画の夢は、結局はみな実現した。しかも多くは不幸な形で実現した。ならば僕らはこれからは、平和をこそ夢見、それを実現させようと考え、願わねば。科学文明は総てを一律化し、便利快適効率化を目差し、大量生産大景消費の経済をも高度に成長させ得たが、その競争社会の中で急速にナムバーワンを目差せば、結局は戦争に至る。ナムバーツウや考えの違う他者を滅ぼせば、自分は直ちにナムバーワンと成り得るからだ。結果を急ぐファーストライフは、つまりは二十世紀を戦争の世紀として了ったのである。
これからはオンリーワン。皆それぞれのさまざまな違いを認め合い、許し合って行けば、時間は掛かるが共存共生も可能となるだろう。結果を急げば戦争になるが、ゆっくり理解し合えば平和を生む。スローライフは、だから平和への道筋だ。二十世紀が「競い合って高め合う」世紀であったなら、二十一世紀は「許し合って深め合う」世紀を目差さねばならぬ。それって、まことに愉しい努力じゃないか。大切で必要な事を考えるのは、実はとても愉しい事なのだ。
そんな事を考えながら、新しい《転校生》を作っていた。そんな事を考える必要の無かった二十五年昔の《転校生》とは、だから随分、違った《転校生》になっただろう。従ってこれはリメイクでもノスタルジィでもない。2007年の《転校生》、五十年後へ向けての、今の《転校生》である。
《転校生》は男の子と女の子の心と身体が入れ替わる、てんやわんやの大騒動を描いた、山中恒さんの児童読み物『おれがあいつであいつがおれで』が原作。ドタバタ大喜劇の上に、こうして互いが互いを理解し合っていく切ない初恋物語。「さよなら おれ」、「さよなら わたし」と呼び合うラストシーンは多くのファンの共感を得て大ヒット。今も尚、熱く語り継がれる伝説の映画だ。
しかし今度の《転校生》は「さよなら あなた」が主題。きちっとした「別れ」の意志が、相手に対する責任と絆を創造していく。
更には相手の生ばかりか、死までを引き受ける覚悟。昔の《転校生》の「のどやかさ」に比べれば、やっぱり「きびしい」時代でありますね。
でも、愉しさ、おかしさ、切なさ、笑い、泣き、は娯楽映画なのだからたっぷり。喜怒哀楽の人間の感情の中で、五十年後の子供たちに、僕らの思いを伝えよう。
──人は誰も、生きて物語を残す。人の命には限りがあるが、物語の命は永遠だろう。未来の子供たちよ、今も元気に暮らしていますか?……これが《転校生 さよならあなた》のラストを締め括る言葉である。
こうして映画は完成した。信州・長野の遅い秋から雪の降らぬ冬。更には冬を無くした尾道でもロケーションを行なった。新しいヒロイン斉藤一美役の蓮佛美沙子は、この初めての主演映画完成の日が、十六歳の誕生日だった。五十年後、彼女は今の僕の年齢に近くなる。彼女の子供が、いやひょっとするとお孫さんが、この映画の観客だ。勇気や希望が沸いて来るではありませんか。そしてその為に努力する愉しさも。
完成パーティーでの、皆の顔は、だから本当に誇らしく、幸福そうに輝いておりましたよ。2007年3月2日の事でした。